自給道楽サイトの解説

 

「自給道楽」とは

 「自給道楽」は読んで字のごとく、自給自足を楽しみながら、道楽気分で実践する、それが最大の目的です。

「農業や自給自足はそんなに甘いもんじゃない」と言われそうですが、我々の目指す自給は、眉間にシワよせ、肩に力を入れ、朝早くから夜遅くまで、ガンガンに働く農業を目指してはいません。

 とにかく『生活それ自体を楽しむこと』それは決して譲れない基本の基本です。そして『我が侭、気まま、意のまま』の実現は生活の場をユートピアにし、この世を天国にすることですから、その分個々の自立と責任が伴いますが、それができれば最高です。

ですからそのことを望まない方、また「そんなことはできるはずがない」と思う方、「そんな体たらくは嫌い」と言う方には不向きです。できるはずがないと思うことはその人にとってはできないことだからです。

自給道楽のやり方は、仕事、生活、遊びを分けて考えてはいないのです。自給自足を生活の糧生産作業という仕事にすると、生活を犠牲にするおそれがあり、また仕事としてかかれば、慰労(遊びなど)の時間も必要となります。生活それ自体を楽しみ、生活の場がそのまま憩いの場になれば、特に遊びの時間を必要としません。なぜなら、毎日が遊びのようなものだからです。「道楽」とは遊びや趣味にふけることですから当然毎日遊んでいる気分にならなければおかしいということです。そしてそれは人間の一番贅沢な生き方と言えるでしょう。

 生活をエンジョイする「快日常」の提案

根性や努力といった我慢を訓練する仕事生活から、やってみたいという意欲、好奇心などによって自然に体を動かすといった子供の世界を思い出し、日常を遊び、楽しみながら創作する、創造生活を提案します。

◆リラックスできる清々しい自然を棲家に開放的農工自給暮らし

   このような自然を満喫できるような広い土地を現在物色中です。できるかぎり毎日がリゾート気分でいられるような、そんな環境を実現したいと思っています。

◆あらゆる日常を遊びながら作り出す「仕事・遊び・生活」の統合

   冒頭でもお話したように、生活を遊ぶこと⇒「道楽」が目的の「自給」ですから。そこには仕事とはっきりわけられるようなものはありません。ごく自然に「仕事。遊び、生活」は統合されます。

◆自然を観察し自然からヒントを得てアイデアやビジョンを現実化する喜びの体験

  「自給道楽」のマニュアルはありません。敢えて先生はというと、それは「自然」しかありません。自然から学び、ヒントをもらって、それぞれの智恵で問題を解決に導きながら進化させて行きます。ヒントからアイデアを出し、具体的なビジョンを描けば現実化はぐっと近くなるでしょう。そのプロセスの醍醐味こそ、楽しさ、面白さの体験であり「道楽」の局地と言えるでしょう。

◆誰の自由も侵さない、誰からも支配されない、自立と対等の環境作り

   こうした作業は一人よりも何人かの智恵を寄せた共同作業のほうが効率が良い場合が多いものです。ところが日本人の特徴として、二人寄ると上下の関係ができると言われるほど、自己主張を遠慮しがちです。そういったことは「道楽」が「仕事化」してしまう原因です。常に自立と対等の環境づくりには、ことのほか意識してゆく必要があるかもしれません。「自給道楽」ではそんなシステム作りにも力を入れてゆきます。

◆生活が健康を生み出す環境作り

   作業を「仕事化」すればそこには必ずストレスが生まれます。ストレスは不健康や病気の生成には欠かせないエネルギーです。そういった不健康や病気の原因を作り出すストレスを最小限に止めるには、「楽しむ」=「道楽」しかありません。みんなで、「道楽三昧」の環境をつくるべく、力を注ぎたいと思います。

   また「癒し」についても、力を入れています。生活に「癒し」の要素を取り入れることは不可欠と考えていま

◆生活をおしゃれに楽しむ

   
生活を「彩る」ことで、これも五感を楽しませてくれます。これまでのようなストイックな自給自足生活とはかけ離れた、おしゃれに楽しむ自給はやはり「道楽」的といえるかもしれません。
 続く


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続「自給道楽」とは

先回も申し上げたように「自給道楽」は読んで字のごとく、自給自足を楽しみながら、道楽気分で実践する、それが最大の目的です。

自給道楽サイトのトップページに、下記のような詩をご紹介しています。

これは中世イタリアの貧者と呼ばれる「聖フランチェスコ」の言葉からいただいたものです。

私は一神教としてのキリスト教には批判的な立場であるのですが、聖フランチェスコは森羅万象、万物自然を兄弟とする考えを基に、被造物を賛美し清貧を喜ぶ生活をした人として知られ、そういった姿勢は自給道楽の基本姿勢であり、この詩は私を支えている言葉でもあります。

彼が日本人に親しまれているのは、彼の思想に仏教的な要素があるからだとも言われています。その死も釈迦の涅槃像のようであったと伝えられています。そのような見地から見ると、彼の生き方には共鳴する部分が多々あります。

 

空の鳥は  
蒔かず刈らず蓄えずして    
飢えることなく
     
野の花は  
苦労なく紡ぐことなく    
自然の恵みで 養われ育つ
   
いわんや人間をや

 

 最後の「いわんや人間をや」という言葉は私の言葉です。

つまり、何も持たない動植物でさえ、万物自然の恵みによって生かされ、養われている。人間には精密に動く手足があり、考える能力さえあるじゃない。なのに、なぜお金に翻弄され、お金がないと生きていけないなんて思ってしまうの?という疑問符なんです。

 

「自給道楽」は、苦労を伴うような努力と頑張りで生きるという、これまでの常識から脱し、この詩のような鳥のように、野の花のように、自然からの恵みをいただきながら、ふわぁ〜と生きる生き方を目指すものです。そのために、自然から学び、自然に従う姿勢を提案したいという心が中心になっています。

 

 昨今では「エコ生活」が叫ばれていますが、自然と関わり自然に任せた生き方は、自ずから、究極の「エコ生活」と言えるでしょう。

 

自然農 

草も花も野菜も果樹もその他の木々も、みんな同じ場所で互いに支えあい、補い合って成長する、そんな森のような、ガーデンのような農園が理想です。

もちろん、化学肥料、農薬は一切使わず、耕すことも、除草もしたくありません。

大地の力、微生物の力、虫や草の特性等々、そこにある自然の恵みが、そこにどのような植物を創生させてくれるか、はじめに気持ちの種をまくだけ、あとはお任せです。

果樹・野菜・ハーブ・花・その他の植物を混植し、その相互作用を利用することで、できるだけ手をかけない不耕機・不除草・不施肥の農法を取り入れた農園では自給の更なるローコスト化を実現することを目指すもので、土を傷つけない、水を汚さないことを基本に自然と深く関わりながら自然の潜在力を利用する永続可能な循環へと近づけるファームガーデンのシステムです。そこからは物心両面において多くの恵みを受け、ここに暮らす人の健康といのちを支える大切な役目を担います。

  

リサイクルは錬金術

「人間の智恵は賢者の石」

衣食住のすべてにおいて不用品をできる限り再生し、不便や苦痛を伴うことなく楽しみながら生活コストを削減します。

フリーサイクル・アート

 上記のように自由な発想と、フリーな身の周り余剰品から作るアイデア作品を、リサイクルというイメージを超えて、自給道楽的発想から、フリーサイクル・アートと呼んでいます。

脱消費生活・創作ライフ「買う生活」から「創る生活」への転換

捨てるものを再生し、新しい価値を産み出す悦び(やり甲斐、充足感)

もったいない精神で、生活の智恵が磨かれる(脳力活性)

ゴミまでも生かし、循環資源の実現(省エネ)

自然の恵みを実感し、根付く感謝のこころ(豊かな精神)

副産物として、生活のローコスト化

 

このような生活のローコスト化は、物資不足の時代のような、そのために特別な苦労や努力、我慢、苦痛といったものを伴うのではなく、楽しい創造生活を実践することによって、結果として得られる副産物なので、それまでの消費生活では当然のようにつきまとっていた生活不安が驚くほど一掃され、想像以上に大きく重くのしかかっていたストレスから解放されていることを知るでしょう、そのことによって、より一層の満足感を体験することができるはずです。これが豊かな精神を養う『感謝の心』を芽生えさせる原点と考えています。

フリーサイクル・アートとは

木工芸・竹細工・陶芸・染色・織物・アロマ・創作料理・生け花その他自然からヒントを得て、そこにあるもの、余ったもの、捨てるものなどを使うアート。

自由に選べる素材を使って、アイデアやイメージを表現することは、創生、蘇生の悦びとともに、そのことが「自分を残す時間の刻み方」というクオリティーの高い生活となる。また創造生活それ自体が自動的に脳の活性化を促すことにつながります。

 昨年惜しくも逝去されました、元文化庁長官、日本国際文化研究センター所長、京都大学名誉教授の河合隼雄さんの、独自の臨床心理療法に「箱庭療法」というものがあります。砂の入った箱の中に千種類以上のアイテムを使って、自分の心の赴くままの世界(箱庭)を作る、というものです。それに対して、何のアドバイスも診断もなく、何回か続けるうちに、何処へ行っても効果を得られなかった、困難な精神症状を持った人が治癒に向うというのです。

 その効果は海外でも注目され、河合さんは各国でこの日本流箱庭療法の普及のための公演、セミナーを続けてこられました。

 このように、何の指導もルールもなく「自由に自分を表現する」という体験は、自己にとって必要な「カタストロフィー(浄化作用)」につながるのではないか、と私は感じています。そのような意味から、自給道楽の提案するフリーサイクル・アートは、無限に発生する不用品というアイテムを使った、箱庭療法に通じる要素があるように思います。

 健康な精神の持ち主であっても、知らず知らずのうちにストレスを受けてしまう現代にあって、ストレスによる免疫力の低下や、その他の病気の予防のためにも、現代人のためのストレス浄化のありがたい(お金がかからない)一つの方法でもあるような気がします。

 

フリーサイクル・アート効果

*アイデア力 *表現能力 *集中力 *好奇心 *末端神経の活性

など人間の多様な潜在能力に働きかけ、脳を活性化させるとともに、創造の悦びを得る体験を実現するでしょう。

アート作品を展示、販売したり、創作料理を発表する場も設けたいと考えています。みんなでコミュニケーションの輪をつくり、補い合いを広げるのも一案ではないでしょうか。

 

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「自給道楽」実践のこころ

 文明という名のもとに自然を退け、分業化、機械化という人工的世界へとひたすら進んできた私たち。その結果、人は人間の自然性までも退けることになり、生活者として不可欠な総合力という自然の能力を失ってしまうことになりました。

 そういうものを失っても、分業化が成立することによって、必要な仕事を専門に任せ(買う)ことができるようになり、何の不自由もなく生活をすることができる社会ができあがり、個々は大変便利になったということです。これが文明のありがたさと、人々は文明という「神の手」に感謝することはあっても、文明によってまさか失ったものがあるなどとは、爪の垢ほども考えはいません。

 昨今のような世界金融危機に襲われても、国民はおろか国政を預かる舵取り責任者たちですら、文明依存病にやられてしまい、グローバルに物事を捉える総合判断力に欠け、チマチマと枝葉末節に捕らわれるばかりです。「世界金融危機」が何を意味しているのか紐解いて説明するものさえありません。誰もそれを俯瞰的に見る目などすっかり失われてしまった所以です。

 逆に発展途上国、未開文明の地域の人たちでは、まだまだ生活者としての自然総合力を備え、環境の変化に個々が対応でき得る能力を有する人々も数多く残存しています。

 衣食住におけるあらゆる雑事は、彼等にとっては生きる上で不可欠なものですから、幼い頃から当然のように先輩や大人たちから学び、さらに早い時期か実践することによって、感じ取る力も養われ、総合力となって身についているようなのです。

 私たちが現在当然のように分業に依存しているさまざまな仕事を、彼等は全て自分の手によって賄うでしょう。料理素材の調達、水の調達、熱エネルギーの調達、衣服の調達、調髪などなど。

文明が進めば進むほど、人間の潜在能力が削がれていることを、最近になって私自身を含めそれぞれがちょっとづつ気づき初めているということは、未開の森の原住民と同じ生活はできなくとも、なんでも便利でありさえあればいいというような「文明の価値」について、人間の能力を引き出すような方向も含め、見直す時期にあるのかもしれません。

 ところで私は自分の髪を自分で切る(調髪)ようになって、およそ30年近い年月がすぎました。鏡に映った自分の手を思うようにコントロールできるようになったのは、ほんの10年ほど前からでしょうか。脳と体が一体になるということをこのことで実感しました。

同時に手先の感覚もそれに応じて敏感になっているように思います。今ではそれほど鏡を見なくても、手先の感覚によって、どこをどれほどカットすれば自分の納得するスタイルを維持できるかが、無意識的に脳が記憶し、自然に手先が動くようになっています。

 こうして人間は自分にとって必要な仕事を意志すると、それに応じて脳が意識して働きはじめ、その脳の命令に従って体がその仕事をこなそうとするのですが、脳が意識としてはわかっていても、体とイコールになるまでには、無意識に近い段階にまで進まないと思うように体は働いてくれません。つまり、意識と体がイコールでつながるのには、多くの脳内ネットワークがつながり、一つの仕事機能として総合認識する必要があるのかもしれません。当然のように、脳でそのような意識が必要なければ、その部分の脳細胞は使わないことでどんどん退化してしまうということにもなるでしょう。

 私たちは文明のおかげで、自分自身でしなければならない仕事量は激減し、その分だけ脳細胞も退化し、それに平行して体の能力も退化してきているといえます。

 この原稿を書き始めたときに、NTTドコモの新しい開発のニュースが入ってきました。

携帯電話各社の熾烈な戦いに遅れを取るまいと他社にはない新機能として、「iコンシェル」なる機能を開発したそうです。

『「iコンシェル」とは、ケータイがまるで“執事”や“コンシェルジュ”のように、一人ひとりの生活をサポートするサービスです。個々の様々なデータ(住まいのエリア情報、スケジュール、トルカ、電話帳など)をあらかじめ登録、これにより自分の生活エリアや趣味嗜好に合わせた情報を適切なタイミング、方法で配送したり、携帯電話に保存されているスケジュールやトルカを自動で最新の情報に更新したり、電話帳にお店の営業時間などの役立つ情報を自動で追加。また、iコンシェルの様々な情報は、待受画面上でマチキャラ(待受画面上に常駐するキャラクター)がお知らせ。』

これまでの機能は「○○ができる」というものでしたが、これは「○○をしてくれる」という、執事(コンシェルジュ)のような機能を備えたものだといいます。例えば出勤のとき「○○線事故のために不通」といったような鉄道情報が自動的に配送、携帯が教えてくれるなど、その他最新天気予報、レンタルショップの返却日などの情報をスケジュールに自動登録、書き換え、また近くのガソリンスタンドやスーパーの特別サービスのお得情報などを、自分が調べる前に配送される機能なのだそうです。そうなればますます携帯は手放せない分身となるでしょう。もしかしたら親兄弟、友人以上に大切な代物になるかもしれません。既にその傾向は進みつつあります。

 パソコンはまるで秘書の役目をしてくれると思っている人も多いでしょうが、ここまでくると、人は全く自分の脳や体を使う必要がなくなり、一体どうなってしまうのかと心配にすらなってきます。

 「自給道楽者」はこのような「文明道楽」を積極的に受け入れるのではなく、文明依存病に犯され、自身の中に埋もれてしまった自然能力を発掘し、文明依存病から立ち直るべく、できるだけ自分のことは自分で賄いながら、脳の能力を最大限に活用し、本当の意味での自立を果たしたい、そしてその生活のなかでこそ味わえる「生きている」ということを正に実感しながら、心から感謝できる毎日を贈りたいと願う者です。

  

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「自給道楽」実践の必然性

 世界的な経済危機に突入し、私たちはいよいよ人生観、価値観の転換をせまられています。

これまでのように、経済優先の社会を根底においたライフスタイルでは、その保証を当てにはできないという世の中になっています。

そこで、私たちは、否応なく自分たちが生き残る手段として、就職によるサラリーを当てにしたこれまでの安定的ライフスタイルに100%依存しきった生活には、見切りをつける必要が生じてきたと言えます。少なくとも「食べる」ということの基本的な部分だけでも自給できるよう考えなければならない時期に至っています。例え勤務先の倒産や、解雇といった事態に遭遇しても慌てないような準備が必要な時代になったということです。

 そういった意味でも『自給道楽』の果たす役目は大きく、今後ますます厳しくなるであろう社会不安にも、何とか対応していける可能性を秘めた唯一の方法であるという気がしているのです。

 たいていの人は、そういったことに気づいているのでしょうが、そうかと言って、実際に現在の生活から別の生活への転換となると、すべてにおいて新しい挑戦となるために、いろいろな制限や、個々の事情もあり、ついついこれまでの生活をずるずると延長せざるを得ないというのが現実なのではないでしょうか。

 そんな人たちが集まって、自分だけでライフスタイルの転換を図るのではなく、仲間とともに相談しながら、実験しながら(はじめは週末だけでも)、智恵を出し合い、労力を出し合い、不得手なことを補い合うという実践の方法は、その分不安や負担も少なくなり、必死の形相で立ち向かう挑戦とは異なる「楽しい実験」にもなるのではないかと思うのです。

 先回は分業化による人間の総合力の低下を課題にしましたが、早くもこの人間総合力というものが求められる時期になってしまっています。

新しい年を迎え、私たちはこのことを肝に銘じて近い将来襲ってくるであろう厳しい状況への個人的防御の地固めを、すぐにでも始める必要があるということを痛感しています。

 それぞれの経験を生かし、より個々の総合力を養うことは、楽しい仕事でもあり、何よりもそれだけで生きる自信につながります。

 『補い合い』の意識を基に、自給を道楽とする生活が実践できれば、この上ない極上の人生となるに違いありません。言い換えれば極楽の実現といえるのかもしれません。そのように夢を描いて未来へと向う『こころ』こそ、今一番私たちに必要な『力』となると信じています。


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「有機システム」について

有機体とは、宇宙をはじめこの世のあらゆる「いのち」の仕組みを現す言葉です。人間はもちろん、この世のあらゆるものすべては、互いに内面的関係をもっており、孤立したものではないとする科学的な見方です。

これはちょっと難しい概念のように感じますが、決してそうでもなく、ごく簡単な生命の基本的システムを説明する語です。

地球上の生命は、人間の呼吸や植物の光合成のように、外界との交換をしながら維持していることは既に衆知するところですが、実はそれ以上に肉体や精神への影響を互いにフィードバックしあっているのですが、このフィードバックという作用が生命にとって必要不可欠であるシステムなのであります。

人間同士では言葉の意味だけではなく声や調子、顔色が大きく影響します。同じように人間以外の音や風景にも影響を受けます。そして光、気圧、温度、湿度、などにも大きく影響されます。

 「雨は森に降る」ということを聞きますが、森の木が雨を呼ぶということです。木の生命システムが集合し、雲や天候などに影響を及ぼす。また、「海は森が創る」とも言われますが、森の木が雨を降らせ、その雨が地中を経て海に流れ込むと、その水(有機物を含んだ)が海で海草を育て、その海草からプランクトン、小魚が育ち、小魚が大魚を育てる。というような循環で豊かな海が創られます。

 

現在の地球では、赤道付近の低緯度地方で暖められた海水が、地球の自転によって発生した大きな潮流によって高緯度地方(北極、南極地方)へ熱を運んでいる。高緯度地方で熱を放出したあと、冷えて比重が増した海水は、海底へ沈み込み、再び低緯度地方に向かって反転し流れ出す。こうして、海水は熱を低緯度から高緯度へ、再び低緯度へと循環させる媒体となっている。ところが、地球が温暖化し、極地の氷が解けて海に流れ出すと、大量の真水によって低緯度地方からやってくる海水の塩分濃度が薄められ、比重が低下するため、沈み込む力が消えてしまうことになる。そのことが原因となって地球が急激に氷河期に入るといわれています。参考↓

http://www.y-asakawa.com/message/hyogaki-torai.htm



つい最近TV放映された「The DAY AFTER TOMORROW」をご覧になった方は、危機感を実感さたのではないでしょうか。




このように、小さな循環が大きな循環を発生させる、それはすべて有機システムの現象です。

私たちの日常もこうして外界と内界との循環から成り立っています。影響が遮断され孤立することで循環が停滞したとき、人も崩壊へと進みます。特に最近になって見られる犯罪の多くは、このような精神的内面崩壊が関わっているのではないかと思うのですが、内面崩壊は特殊な人だけに現れる現象ではなく、自らの肉体を壊す治癒能力の低下の原因とも深く関わっているようなのです。

私たちはこのような自然の有機的循環を無視して生きることはできないことは知っているのですが、これまで人間はこういったシステムを退け、人為的に偏りすぎていたことを近年になって反省する新しい論説も増えているようです。小さな有機システムに習った暮らし方は、このような意味において今後の人類、地球に不可欠なものではないかという考えから自給道楽では有機システムを柱にしています。


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「集まって暮らす」
 先回は「有機システム」について解説しました。
今回の「集まって暮らす」は、その「有機システム」をより効果的に機能する手助けをする大切な要素となります。
 私たちは、これまで特に集まって暮らすことを意識することなく、結果として社会という集団を作ってきました。
それならあらためて「集まって暮らす」などと大仰なコンセプトはいらないんじゃないか言われそうですが、
有機システムを推進する上では、個々ばらばらの核家族の集まりという、従来の社会の分子単位ではなく、関係性を
持った分子(クラスター)という集まりによって有機的環境が高まるのではないかという考えを基にしています。 
 「自分と家族以外はみな敵」という競争社会においては、とかく社会とのつながり、人間同士のつながりは上辺だけに
なりがちです。そういった孤立化が、現在のように人と人との絆を希薄にし、家族間の絆までも薄弱化させ、孤独で閉塞
した環境を作る原因になっているような気がしています。
 そこで自給道楽では「自給を楽しむ」というキーワードを基に、それに賛同する仲間とともに、一人では無理なことを、
みんなの智恵と労力、そして共同資本によって、助け合いながら、みんなで作り上げるという目標に向うことを選択してい
ます。
 自給道楽のブログでも記述していますように、類を同じくする者同士が集まることによって、従来のバラバラ社会よりも
多くを共認できることが可能となります。そのことは人間が生きる上で、ストレスを減らし、不全感への充足として働きか
ける一石二鳥以上の効果をもたらします。
 これまでの地域社会は、同類が集まった社会ではないので、価値観の一致が難しく、慣習に縛り付けるなど何かと窮屈な
ことにもなり、つい「付き合いが面倒」ということが、若者離れというような働き盛りの年代が地域に定着することを避け
る結果の原因の一つにもなっているのではないでしょうか。 
お互いに他の人の自由を侵さないことを前提に据えた上で、周囲の社会とも連携する、風通しのよい組織のネットワークの
一部として機能しながら、施設や道具、その他多くのものをシェアーし、足りない事(労力や技術、アイデアその他いろい
ろ)を補いあうことで負担なくお互いがメリットを得ることになります。
このような有機的関係性では、孤立することがなく、常に相談相手が身近にいる環境となり、精神的にも安心できる場(巣)
となるでしょう。また、場所や道具、モノなどシェアーできるものも多く、キッチンガーデンなどの共有も含め、経済的に
も安価でクオリティーの高い生活の場が形成されます。
さらに、子育て年代においては、共同体内での見守りや手助けにより、安心とゆとりの子育てが可能でしょう。高齢者に
おいては、孫が近くにいるようで、きっと楽しみながら手助けができることと思います。その上一般の家々が連なる町や村
よりも、防犯面においても効果を発揮するでしょう。 
そうした集まりは、絆が深まるころになると、時間的余裕のあるものが“もっと何かをしよう”という生産的な意志へと
高まってきます。そんなときには、共同で起業を考えることも安易にできることになるでしょう。“集まる”メリットはこ
んなところにも出てきます。 
 権威や風習に固められた不自由な集まりや、孤独な生活からの解決策としても主体性を確保できる対等な環境システムと
して効果的に機能することと思います。

みんなが自分たちの居心地よい環境を作ることに自分のエネルギーを注入する。本来、人間はこのような生活の様式が自然な暮らし方ではないか、そんな風な考えに基づいて「集まって暮らす」ことを提案します。

 
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続「集まって暮らす」
 

 先号に続き、今号でももう少し『集まって暮らす』ことの意義について説明を加えたいとおもいます。

ところで、私たちのストレスの原因のほとんどは、人間関係によるものが多く、そういう意味で「集まって暮らす」と聞いただけで『他人が集まるなんてことは難しいでしょ』と言われる方が多いのですが、それも当然のことと思います。なぜなら、これまでの人間関係は付き合い、気遣い、建前、従属、見栄、など、あまりにも面倒臭いことばかりですから。

そういうことがあってか「孤独は結構好き」とか「一人が好き」という人も多いのではないでしょうか。

ワイワイガヤガヤやるのが好きな人は〈振り回しタイプ〉で、自分が中心になって周囲を引っ張るパワーのある人なのですが、逆に〈振り回されタイプ〉の人は〈振り回しタイプ〉につかまって、自己主張できない人と言えるかもしれません。 

 〈振り回しタイプ〉の人からは「一人になりたい」ということを聞くことは少ないと思います。「一人が好き」な人は日頃振り回されながら我慢しているということもあるのでしょう。

しかし「一人になりたい」「一人が好き」という人が、本当に一人ぼっちを好むのでしょうか。

ところで、世の中に〈振り回しタイプ〉と〈振り回されタイプ〉とではどちらのタイプが多いとお思いですか。当然〈振り回されタイプ〉という答えが返ってくると思います。 

 もし〈振り回されタイプ〉の人が、みんな「一人が好き」というなら、なぜ現在のような携帯電話やEメールがこんなに普及したのでしょうか。人は言葉を手に入れたことで、言葉を交わさないと生きられない動物になっているのではないのでしょうか。このことからもわかるように、本当に一人ぼっちを好む人は、極々まれであるということが言えます。特に女性にとって〈おしゃべり〉の相手がいないと、早く老け込んでしまうようです。 

 そこで人間関係がうっとうしくなく、コミュニケーションを楽しむためには、先回も触れたように「気の合う友人、仲間」を作る必要があるのですが、これがなかなか大変なのです。 

 まず、「一人が好き」な人は〈振り回しタイプ〉の人からはちょっと遠ざかったほうがいいかもしれません。ただ、一人も好きだけれど、振り回されることでむしろ安心できるとか、そのほうが楽だ、という人はそういう関係がお互い願ってもない共依存の関係ですから、その関係を解消することは無理ですし、そうしようとも思わないでしょう。 

そうではなく負担や苦痛を感じて一人を望む人は、それぞれが自己を主張できるように自立することから始まるのではないでしょうか。これまでのように、周囲のすべての人と人間関係をつなぐ必要はない、ということをはっきりさせ、出逢った人の中から自分と「気の合う」人を見つけることが肝心と思います。 

 その際、何を基準にするか、が問題です。

人間は一人一人みな異なる世界を持って、その世界からすべてを判断しています。ですから「気が合う」ということ自体が、もしかしたら不可能なこととお考えかもしれません。ですが、ここで私が提案したいのは《自分の世界を共有したいか》ということではないかと思います。共有したい心は、自分の世界を知ってもらおうと努力します。その努力なしでは決して他との共有などは不可能です。また自分の世界を共有したい気持ちがあるなら、他の人の世界も理解しようと努力することになります。 

 ところが、この世界の次元があまりにも違いすぎると、異国の人と交流する以上にどんなに努力をしても困難になることがあります。そこで、お互いが理解をするには最低の次元の一致が必要ではないかと考えます。

その次元の違いを見るときに、一番解りやすい方法を一つ見つけました。

 趣味が同じとか、性格が似ているなどで選ぶ人がありますが、性格や趣味は合わなくてもさほど大きな問題はありません。それよりも、自分の未来(将来)について、どの辺りに視点を置いているか、ということです。

ある人は、すぐ足元の今日、明日についていつも考えている。またある人は、会社のスケジュール(休日)の通りに動くのでそこへ意識を置いている。またある人は数ヶ月先の予定をいつも立てる。そしてある人は自分の数年先のビジョンを持っている。また数十年先のビジョンへ意識を向けそれに向っている。

こうして未来のずーっと先のビジョンを描くには、それだけ大きく世界を見る必要があります。それが次元の違いになるような気がしています。

例えば、知らないところを車で走るとき、自分が居る場所の周辺だけを見ていても、何処へ向えばよいかがわからなくなることはありませんか。そこで、視点をズームアップして大きな地図の中のどの辺りの場所でどの道をどちらへ向っているかという自分の位置を確認する必要があります。最近はナビゲーションシステムのお陰でそういった思考を必要としなくなってきましたが、そのことは、却って私たちの脳力(人間力)を低下させていることになっているとつくづく感じています。

 もし、自分の今日、明日のことだけを考えて生きている人は、世界の動きや、環境問題、政治の動向などには関係なく生きられます。でも数十年も先のビジョンを描く人は、世界や政治の動向に無関心ではいられません。

「自分のことだけで精一杯で、世界や地球などに意識が回らない」という人は、多分そういうことからなのではないでしょうか。

 人生の視点がどれくらいズームアップしているか、またズームインしているか、それによって価値観、世界観は大きく異なります。「蟻と象の話」で蟻が象の足を上りながら、行けども行けども一向に全貌がつかめない無限の宇宙のように見えるのも当然のことです。蟻は象の視点まで遠ざかれば象の全貌も把握できることを知るべきなのです。

 ですから、足元の視点だけで生きている人が遠い先のビジョンに向っている人とそのままコミュニケーションをしても、少しも面白くもおかしくもない、ということになります。象が遠くに見える木々や山川の話しをしても、蟻に見えるのはすぐ足もとの土や小石、せいぜい見えるのは草なのですから。つまりそういう人同士が互いに気を遣いながら、その状態のまま人間関係を続ける必要はないのではないかという結論なのです。

 意識の場、視点の位置が違う者同士では、結局お互いが負担を感じてしまうことになる、ということを頭に置いて、最初にその辺のこと(どこに視点があるか)を掴むことができれば、必要以上に近づき、気を遣い、本音と建前を使い分ける必要もなく、軽い挨拶で受け流すこともそんなに抵抗なくできると思います。

 「気が合う」という「気」も大いにその辺りのことが関わっているように思います。ビジョンを描いてそこに向っている人は、世界がどんどん広がることで、実は自己の精神の脱皮も続けているということもありますから、性格もどんどん変化します。

何事も性格のせいにして親に責任転嫁をはかる人もいますが、DNAによって性格が決定づけられているという考えは、今ではもう時代遅れと言われています。最近ではエピジェネティクス(Epigenetics)と呼ばれる遺伝学、または生物学の研究分野でDNA配列の変化を伴うことなく後天的作用(DNAメチル化作用)によって変異が生じる機構が発見され、一卵性双生児でさえも、環境の違いの影響によって性格だけでなく顔かたちまで変わり、これが双子?という結果を招くこともある、ということが解ってきました。

 先号では「類を同じくする者同士」という言い方をしました、またブログでは「類友」という表現で書き込みをしていますが、ビジョンを描くことによって、自分が求めている世界のビジョンも当然明らかになりますから、(もしビジョンを描いていない者同士なら、その必要がない同類世界)そこで何をしたいかはそれぞれ異なっても、求める世界が同類になる可能性は高いということになるのではないでしょうか。

 先回のテーマ「私」から「私たち」の意識(視点)転換も、こうして広がった同類世界での必然性から生まれてくるものです。そういった、同類世界を共有することによって、「私たち」という意識が生まれると、気遣いとか本音と建前の使い分けというような不必要なものを排除した人間関係を可能にするのではないかと考えます。そういう人が『集まって暮らす』ことは、集まった数だけ多様性に富むこととなり、自らの世界を広げ、同類世界をより充実させ、面白く、有意義に時間を使うことを可能にしてくれると思うのです。

 人間関係でストレスを作り、人間関係から逃げ出すことを望んでいた人たちは、その人間関係のあり方、選び方が間違っていたのかもしれません。人間関係は自分の世界を広げ、人間関係でこそ絆が生まれることも可能だということを、今一度考えてみてはいかがでしょうか。そういう意味で自給道楽の場で「集まって暮らす」提案は、あらたな関係性を図る実験場になるでしょう。

 

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自給道楽サイトの解説

「補い合い」

  私たちは日ごろの生活の中でも「誰かの助けがほしい」と感じることはないでしょか。 専門業者に依頼するようなことから、業者に頼むほどでもないことまで何かと不便を体験することがあります。

 

核家族の集まりで形成されている社会では、家族以外の人に気軽に助けを求めるということはそれほど容易いことではなく、不便を感じている人も多いと思います。友達を作って助けあっている人、世話好きな人にお願いしている人、おばあちゃんに来てもらって子供を見てもらったりなど、それぞれの問題によって、いろいろ工夫しながらこれまでは何とかやってきた、という人も多いと思います。

 

友人や知人などの好意に甘える場合、甘え続けることもお互いが負担になります。たとえ「感謝」の心を物品に代えても、それが度々重なると依存する側には「助けてもらうばっかり」という負い目が残ります。

 

助けたり、助けられたりという行為は、価値を測れません、多すぎても少なすぎても失礼になるので、どうしても後に何かを残すことになります。一番人間関係の難しい部分なのではないでしょうか。

 

おばあちゃんに頼む場合は、結局金銭で清算する人が多いのは、身内という関係性から、お互いの利害をはっきりすることができるということと、負い目を残さず、仕事として頼むことができるからでしょう。おばあちゃんも自分の孫や子供のために役に立てて、お小遣いも入り、ちょっと大変でも納得でき、お互いの利害を一致させることができます。

 

田舎の場合「結」などの古い習慣(家族だけでは手が足りないときに、人手を貸しあう制度)が残っているところもあります。

 ただ「結」の場合は村内の全員が義務として半ば強制的に駆出されることが多いようです。そのためそれほど多くの人手を必要としなくても、仕事が終わるまで同席することで、義務を果たす、という考え(付き合いだから仕方ない)が習慣づけられます。また「講」という制度(貯蓄・融資を目的にした私設銀行のようなもの)とセットにされていることもあるようです。

 こうした村では、当然のように村民全員が構成員となり、一般の町内会システムより強い絆(制度下での)を結ぶことになります。そうなると、個々の生活のプライバシーやオリジナリティーは自ずから削がれる傾向になります。

 私は元来街育ちの人間なのですが、一時期、山深い山村で生活をしたことがあります。
そこでの生活は、プライバシーを守るという意識は捨てなければなりませんでした。

玄関はいつでもオープンにし、いつでも誰でも部屋に入れるようにしていましたので、「おるけ〜」と言って部屋に入ってくるのは普通でした。

またお風呂に入っているときなど、お風呂の外から声をかけられるのは当たり前のことです。当然、毎日の食事の献立にも、村の人々の関心は注がれます。

 隠し事はできないという、こうした人間関係の「絆」は、失われた昔の人間関係を取り戻したようでもあるのですが、一方では「横並び」という社会ができあがり、プライバシーは勿論のこと、誰もが真似できること以外の、オリジナリティーを削ぎ落とされることにもなっていました。

動物や人が群れを作る習性があるのは、互いに補い合う必要があるからです。

自給道楽の「補い合い」は、上記の風習のように窮屈で面倒な付き合いではなく、「個人対個人」の「補い合い」を目的にし「横並び」でもなく、そうかといって「ピラミッド型」でもないシステムを考えています。補い合うことで「役に立っている」という誇りと、「いつでも助けてもらえる」という安心感を得られる、そんなシステムなら、みんなが負担なく気軽に助け合うことができます。

具体的詳細については参加者の方のみ公開とします。

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