快に生きる技 Vol.1

 

「怒りのサプリメント」

 

 快を追求し“快のままに”を心がけながら生活をしてきた私なのですが、日本人の常識からは少々逸脱しているのか、真面目に耳を傾ける人も少なく、現実味のない話として受け止められることも多いので、今回は「快」についての詳細・メカニズムなどの説明と快に生きる技の真髄とも言える一番大きな効能を呈する「怒りのサプリメント」についてご紹介したいと思います。

“快”とは心も身体も心地よい状態(Comfortable)のことです。もしストレスなどで“快”が保てなくなるということは、心や身体に違和感を覚えます。その感覚を見逃さないように捉え、不快の原因を解消し“快”への修復を常に心がけ、それを基本に据えた生活スタイルというこのが“快のままに”ということになります。「快の技」とは不快の処方箋と言えます。

快適、快調といった意味合いが一番近いのですが、それ以前に快楽という言葉を思い出すかもしれません。私たちはこの言葉をあまり良い意味では使わない習慣があります。特に日常的には官能的欲望の満足によって起こる感情を指して使うことが多いと思います。それは本位な意味ではありませんので、敢えて“快”と表現しています。私の勝手な造語かもしれませんが、不快ではない状態を現す快は、「幸福」という言葉以上に、日常的感覚を表現する最も妥当な語として私の芯になってしまっています。その最初の試みが「怒り」の解消でした。

 

周囲の人たちの怒りを見るにつけいつも嫌悪感を覚え、自分の中で怒りを感じたとき、怒りを露にしている自分に更なる大きな嫌悪感となって襲ってくる状態は、その度にそこから逃げ出したい衝動にかられてしまいます。

みなさんの中には心の中で煮えくり返っていても、決して顔には出さないという技をお持ちの方も多いと思いますが、いかんせん私はその能力がとんと磨かれず、心の状態はすぐに表面に出てしまうのです。そういった不器用な私ですから怒りを我慢するなどということも大きなエネルギーを要し、なおいっそうストレスを伴うことになりますので、そういうことも長くは続きません。

 

そう言っても全く笑顔の訓練をしなかったわけでもありません。一人で車を運転しているときなど、バックミラーに向って「にっ!」と笑ってみたりすることもありました。自分ながらその不自然さに却って吹きだすほどでした。しばらく続けても結果は同じでした。

そのことが幸いしたのかもしれませんが、繕うことが苦手な私にとっては、怒りを起こさない、感じない方法を見つけることしかありません。「くさい臭いは基から絶たなきゃダメ!」というコマーシャルがありましたが、まったくそのとおりの状況です。

 

最初は他人の怒りを見ながらどのようなメカニズムで怒りの感情が高まるのかを丹念に観察することから始めました。観察は自分にも向けられ、次第に自分の怒りのポイントも他の人と同様に(共認できない、受け入れたくない)ということだけであることがわかってきました。

ちょっとした『温度差』という判断のズレは個々に許せる範囲があるようですが、それでも苛立ちを鬱積させることは間違いありません。それが次第に反感へと発展したときに同様の言動をキッカケとして怒りという形で爆発する。

そんなことで怒りを覚えていたのです、みっともない極みだとつくづく自分を恥ました。

 

初対面でも『温度差』が大きすぎることに出合うと、恐怖や不安から怒りを生じることもあります。この恐怖感や不安感を日常的に抱えている人ほど怒りへの道へ直結しやすいということもわかります。普段から穏やかで平和な状態の中に暮らしている人と、そうでない人とでは、怒りっぽさに差がでるのは当然のことと言えます。つまり怒りっぽいかどうかで日常の生活のありかたが見えてしまうということですね。

 

そういう自分のバカさかげんとまともに対峙したことがキッカケとなって、常に自分の心の状態(今のこのイライラは何に対する顕れか)を見つめることができるようになり、誰かの反感や苛立ちに対しても同じようにその背景へと意識が向くようになったのです。その効果によって次第に他人の言動で怒りを覚えることも少なくなってきました。また他の人の怒りに同調することもなくなり、怒りの解消は私に大きな「快の日常」をもたらすことになったのですが、すっかり消えたわけでもなく、時々頭を持ち上げる怒りが発生するのですが、短時間で収拾することを可能にしています。それだけでも大きなストレス回避につながっています。

 

そう、お察しのように「怒りのサプリメント」とは、『観察』、それだけだったのです。

そんなことで?と思われるかもしれませんが、私はその後も『観察癖』がすっかり身につき、それはもう『観察』することの面白さを日々味わっています。もちろん人間嫌いの私はすっかり人間好きになってしまったことは言うまでもありません。

 

 それまで人間に警戒心すら抱いていたのか、人が馴染めない雰囲気を出していたようで、他人から話しかけられることもめったにありませんでした。

そんな風に不器用で最大の弱点であった私の素質が、人間観察という思いがけない玩具を手に入れたことで、子供のようにいつまでも飽きることなくそれを使って遊び、人生を楽しくすることに貢献しているということになります。

 

それに加えて、誰かを観察するということは、同じ分だけ自分を観察することになっています。この自分の気づかなかった自分の発見ほど面白いものはありません。他の人を観察する楽しみは、むしろこっちの方に重心があるのかもしれないと思うほどです。これは是非とも体験していただきたいお勧めサプリメントです。

 

人間観察の面白さを体験するにつけ、自から他人に近づくことを知らずしらずやっている自分。また、いつのまにか、電車の中でも公園でも、スーパーでも、どこでも知らない人から話しかけられるようになっていました。

こちらの雰囲気がそうさせるのかとちょっと嬉しい気持ちです。

 

 時々どうしても背景の見えない人に出合ったとき、「マルコビッチの穴」という自分だけのゲームをすることがあります。ご存知でしょうか、「マルコビッチの穴」とは10年ほど前の映画題名です。

俳優ジョン・マルコヴィッチの頭の中に入れる不思議な穴をめぐる、奇想天外なガジェット・ムーヴィーです。以下に簡単なあらすじをご紹介します。

人形使いのクレイグ・シュワルツ(ジョン・キューザック)は、ペットショップに勤める妻ロッテ(キャメロン・ディアス)と貧乏な二人暮らし。ある日、彼は定職に就こうと新聞の求人欄を広げ、マンハッタンのビルの71/2階にある会社、レスター社の職を得る。そこで美人OLのマキシン(キャスリーン・キーナー)に一目惚れした彼は、彼女を追いかけるが相手にしてもらえない。そんな時、会社の一室で、有名俳優ジョン・マルコヴィッチの頭の中に15分間だけ入れる穴を見つけてしまう。クレイグはそれを使って商売を始め、次々と客をマルコヴィッチの穴に入れていく。が、それに気付いたマルコヴィッチ本人が自分の穴に入ってから事態はややこしくなってくる。ロッテがその穴に入り、男としてマキシンと性体験して子供まで作ってしまったりと、どんどんエスカレート。クレイグは元の人形使いに戻り、マルコヴィッチはねじれた世界へ突入していくのであった。http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD31969/story.html参照

 映画は面白く作られていますが、私は興味を抱いた人の眼から外界を見たらどのように見えるか?に関心があるわけですから、できるだけその方を観察し、その人の価値観、世界観を掴み、その上で穴に入ってそこから外界を見るイメージをするのです。価値観世界観はモノを見るその人独自の眼鏡のようなものですから、その眼鏡を通して見た外界はまるで自分の使い慣れた眼鏡から見たものとは違って見えるということを体験したいためです。言ってみればヴァーチャル体験のようなものです。

これも思いがけない発見につながります。

 

その人の眼になって世界を見るつもりになると、慣れていない眼鏡をかけるようなもので、ピントを合わせるのに時間がかかります。けれどその眼鏡でモノが見えた(当然自分とは違う見え方)と思ったときは、とても新鮮な感覚になります。わかりやすい例では隠し絵(探し絵)に見られます。どんなに見ても同じ絵にしかみえない絵の中に、あるキッカケで全く違う絵が浮き出てくる、あの感覚です。

 

 同じ世界に居ながら、眼がキャッチするものが全く違うということは、私に見えるものが相手には見えないという現象が起きます。同様に相手に見えるものが私には見えない場合、見えないものは『無い』になってしまっていることがあるということです。それを何とか見たいと思う心から産まれた私の一つ苦肉の策なのです。

 

 人は百人百様の自分独自の眼鏡から外界を見ているということを体感すると、人間が如何に可能性を秘めた生命であるかを感じ、自分の世界がほんとに小さなものであることを知ります。そんな小さな世界でも周囲と影響しあいながら織物の一部のようにこの世界の中に溶け込んでいる自分。そうした自分を実感したとき、自分の周囲につながって存在しているすべてが愛おしく感じ、思わず感謝したい気持ちになるのです。

 

 このメルマガやブログは、私の眼鏡を公開するものです。いつか私の眼鏡をつかってマルコビッチ体験をする方があったら、是非感想をお聞かせください。

次回はどんなテーマになりますか、予定をしても多分変わってしまうと思いますので、私自身も楽しみにすることにします。

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快に生きる技 Vol.

 

「私」から「私たち」へ

 

 先号にて「怒りのサプリメント」をご紹介し、人間観察、自己観察の効果について話しました。これによって怒りを抑えるのではなく、超えることができることを知れば、きっと「目から鱗が落ちる」体験であることを実感されることと思います。

 

 今号では、もう一歩進めて、「私」と「私たち」についてお話したいと思います。

まず、怒りのサプリメントで「観察」の効果を体験できれば、もう鬼に金棒で、この観察の習慣が身につくと「私」の外側へ意識移動することが可能になります。

 

 そうなると、基本的にモノ事は「それ自体が個別に独立して存在しているのではない」ということが見えてきます。つまり、こちら側とあちら側(対象)との差異によって成り立っている、ということです。

「私」は「私意外の対象」との差異により「私」というアイデンティティー(個人・個体性)が確立するわけです。このことは体験を通じて感じる方が簡単で、言葉での説明はとても難しく感じるのですが、拒否反応を起こさないで、お付き合いください。

 

 あるモノの特色は、他のモノとの比較対象によって決まります。例えば、猿という名称がつけられた動物は、手を使って木登りをしたり、枝にぶら下がったりしながら森の中で群れを作って生活する。同じように木に登る動物はいるが、猿のように器用に手を使うことができない。だから猿は豹や熊とは違う。人と猿の場合、人は言葉を話すという他に類をみない特色を持つ、器用に手を使うところは猿とよく似ている。ただ人間のほうが言葉を話す分だけ大脳が発達している。魚は水の中に棲み、猿は陸上でしか生きられない。などというように他のモノとの差異によって名称付けられ(分類され)、成り立っています。

 

 「私」と「あなた」も同じで、「私」は「あなた」のように〜ではないが、「あなた」は「私」のように〜ではない、などというように、「私」と「あなた」の差異によって、「私」と「あなた」とのアイデンティティー(個人・個体性)が確立します。「私」にしがみついて「あなた」を観察していないときには、「私」と「あなた」のどこがどう違うかがはっきりせず、ただ何となく違うということで拒否することもあるかもしれません。ただ、人はみな違う(DNAの遺伝情報からしてみな違う)生き物なので、差異を拒否するのではなく、差異に目を向けるほうが相手に近づきやすく、何よりも“自分を知る”という、日常的には面倒で大変難しい考察に大きく寄与する効果があるということを強調したいのです。

 

言い換えると、「私」は私以外のモノ(人)によって「私」で在りうるということになります

 

 日本の伝統的建築の中に、「縁側」という空間概念があります。これは内と外を結ぶ、内でもない、外でもない中間の領域を取り入れた最も日本的文化の象徴とも言える、古くから伝わる伝統様式です。

 内と外、こちら側とあちら側、という分離をつなぐもの、そしてどちらの要素も抱有しながら、可能性をより広げる。日本には昔から、このような中間領域概念という文化的要素があったんですね。

 

 「わたしたち」という概念は、「私」と「あなた」を結ぶと同時に、「私」「あなた」という個性を輝かせる「縁側」的な役割を担うものでもあると感じています。

 

 中国四川大地震において、現地救済に出向いた日本の自衛隊や医師団が、現地の人々から「日本人を見直した」と評判になり、日本人の信頼回復に大きな貢献をしている、という記事を目にしました。

 

日本は明治維新以後、西洋に追いつけ追い越せとばかり西洋文化を取り入れることにひた走ってきましたが、まだ日本人の「こころ」は健在で、穏やか、丁寧、親切などの「愛」に通じる「こころ」、これこそ日本が他国に誇れるものではないかかという想いがあります。現在世界における日本の位置は、多くの面で低下しているように見えますが、人間性という面においては決して他の国に劣らず、むしろ私たちは、もっとこの「人間」自体を磨き、世界へ発信すべきではないかと思うくらいです。

 

中国の富裕層では日本産、日本製品は憧れの的になっているそうで、日本品は高価だけれどもブランド力がある、と。それを逆手にとって日本の地域名が商標登録され、日本の産物が輸出できないという問題が起きています。

 これも日本の「こころ」の価値を盗みたくなった中国人の苦肉の策かもしれませんね。

そんな泥縄式の軽佻浮薄な行為で対決できるほど一朝一夕にできあがった「こころ」ではないことを、当の中国人は知っているはずなんですがねぇ。

 

 また仏教では、人間の苦の原因の一つに「渇愛」をあげています。自己への執着が強すぎると他者との関係は深められず、そのために起きる感情で、自己への執着を薄めることによって深まる他者との関係が「渇愛」という不全感からの解脱を可能にすることを説いています。

 

 「私」から「私たち」へ意識移動を活発化することは、「私」と「あなた」の間の壁をすっかり取り去り、風通しをよくし(風によってつなぐといっても良い)、「私」と「あなた」を統合へと導くことで、「私」への執着は解かれ、より他者との関係性が深められることを、ここでも確認できます。

 

 このように「私たち」意識とは、「私」と「あなた」を結ぶ道の役割を担っているといえます。このことによって「私」と「他者」とのはっきりした境界線は薄れ、他者の喜びや悲しみへの同感を活性化させます

そうして「私たち」意識(縁側)によって繋がれた、お互いの間には容易に「愛」の感情も生じやすい状況を作るということになります。誰かを愛するという感情は人間にとっては『快』の絶頂と言えます。

 

 私の経験によると、観察から始まって「私たち」意識が高まることで、もう一つの大きなボーナスがもたらされています(継続中)。それは「私たち」という連帯間で交わされる感覚「共時性(シンクロにシティー)」という現象の増幅によるものではないかと思っています。

 

 非科学的との批判もありますが、わたしたちは日常、科学では説明できない『偶然の一致』体験をすることがあります。例えば、しばらく会っていない友人のことを考えているとき、電話のベルが鳴りその相手が今考えていたその人だったとか。また、何となく○○が食べたい、と思っていたら、夕食にそれが出て感激したとか。

よくあることですが、親しい人の事故や死などを夢で見るなどという『虫のしらせ』というものもそうです。昔おばあちゃんから「下駄の鼻緒が切れると、不吉なことが起こる」と聞いたことを思い出します。何らかの予兆を体が感じ取ってのことでしょうか。

 

逆に「欲しいと思っていたものが、偶然手に入ったり(無償で)、何かをするために必要なお金が思いがけない収入となって得られたり、ということを度々経験することがあります。

 

 もし、これが共時性(シンクロにシティー)によるものであるとすれば、少しだけ説明を加えますが、私は素人で、専門化ではありませんので、読者の個々の判断に委ねます。

 

カール・グスタフ・ユング(独心理学者)が理論物理学者ヴォルフガンク・パウリと1932年から1958年までパウリ=ユング書簡と呼ばれるパウリの夢とそれに対するユングの解釈におけるシンクロニシティの議論をし、それをまとめて共著とした"Atom and Archetype:The Pauli/jung Letters, 1932 - 1958"(『原子と元型』)を出版している。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

 

 ユングは人間の「個的意識」のほかに、私たちの深層意識に共有する「集合的無意識」に注目し、生命の種を貫いていると考え、複数の出来事が非因果的に関連性をもって同時に起きる(共起する)、という共時性(シンクロにシティー)の理論を提唱しました。これは日本猿の種間においても同様な発見がされています。(ライアル・ワトソン「百匹目の猿」

 

 私にとって、このボーナスは大変ありがたいもので、そのたびに感謝し天に手を合わせています。これこそ「快に生きる技」の骨頂と言えるものと、確かな自信をもってご紹介したわけです。

 

 このように記述しながら、「実に人間の意識(想い)は現実化するものなんだ」ということをあらためて感じ入っている次第です。

この現実化への架け橋となる「私たち」意識(私はそう信じている)、大切にしたいとつくづく思います。

 

参考文献:「共生の思想」黒川紀章(徳間書 

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快に生きる技 Vol. 

「リンク脳力」

 

 快に生きる技として、どうしても上げたいものが「脳のネットワーク化」なのです。

これは脳の神経細胞の自動的ネットワーク作用の働きを、もしかしたら意識的に強めることになるのかもしれないとは感じていますが、私は脳の専門家ではなく、脳を学問的に解明している者でもありませんので、脳科学とは関係なく(もしかしたら一致することもあるかもしれません)自分の体験からの考察なのですが、どうかその点を考慮した上で参考にしていただければ幸いです。このように考えるようになったきっかけは、前々回の「怒りのサプリメント」でお話しました「観察」による体験から得られたものです。

 

 二人またはそれ以上の人が、同じモノ、コトを体験しそれに対処する際、明らかにそのモノ、コト、に関連するいくつかの背景または問題を配慮した上で行動をする人と、全くそういう配慮がなく行動し、失敗ややり直しを重ねている人を観察し続けました。「知っていたけど、思いつかなかった」ということがあまりにも多いのです。そうして観察していると、モノ、コト、がバラバラに(引き出しにしまいこまれ)脳に関連性を伴わない部分として収納されたまま「リンクされていない脳」に気づかされたのです。そのことは当然ビジョンやイメージを描くことが苦手ということにつながり、想像性や創造性という人間が自然から与えられた能力を発揮する機会を逸し、「快」の大元に触れられないという勿体ない人生になります。

 

これは上記の「集まって暮らす」2の内容とも密接にリンクすることです。

ブログでは「脳のネットワーク」Aha体験、「あたまの部屋」というテーマでも少しこのことに触れていますが、もう少し詳しく説明をしたいと思います。

 

 「あたまの部屋」では、脳の引き出し部屋の違いについて述べました。つまり引き出しにしまい込んでしまった知識や情報は、それをTPOによって瞬間的に引き出すのが困難で、「なんだったかなー、以前に聞いたことがありそうなんだけど」というように、なかなか必要な瞬間に思い出すことができないということが多く発生します。肝心なときに役に立たない、宝の持ち腐れになるということなのです。

 

しかしながら引き出しにしまい込む癖は、その方法でしか脳は記憶する術を知らない(逆に丸暗記は得意とする)のでどんどん増えるだけ。そうなると整理がつかなくなり、新しい情報をできるだけ篩いにかけて脳へ入る前に封鎖してしまっていることにお気づきの人もあると思います。そうしないと情報の山積み状態になると、脳はどんどん忘れようと働いてしまうからです。それは脳が情報をネットワーク化されないことによる弊害なのではないかと私は思っています。

 

 ネットワークされない情報は、各々バラバラに関連性のない部分の集まりとして記憶されているのですが(これとあれとはまったく異なる質の情報と思い込むこと)、これは工業化社会がもたらした専門化、細分化、というあらゆるモノ、コトの分離化現象によって私たちの脳が洗脳されたことによるものではないかと思うのです。ですからそういう習慣が身についてしまっている人は、工業化社会にとっては優等生だったはずです。

 

全体と部分の協力化によって、情報がネットワーク化されると、全てがどこかにつながり、関連性を持って記憶されます。こっちの情報とあっちの情報が、昨日の情報と今日の情報、数年も前の情報と現在の情報、あの人の情報と違う人の情報、新聞の情報とテレビドラマ、スーパーの価格と世界の動向、食卓と政治が関係のあることとして繋がるなど、ということです。

もし、すべての情報がリンクされて記憶されれば、ある一つの情報の優先リンクから次々たどることで、目的の情報へ行けます。 言葉では大変時間がかかるように思いますが、脳の働きは、一瞬でリンクをたどることが可能になっているように私は感じています。

 

先の項でも関連するように、脳の情報のネットワーク化が進むにつれて、必然的に視点は広がり、ズームアウト化されることはいうまでもありません。

 

 部屋の収納、整理整頓など、片付け上手の人も脳のネットワーク化を行っている人なのではないかと思います。

同じ収納スペースであっても、より多くを収納し、何が入っているかが一目瞭然に見渡せ、しかも出し入れがしやすい、そんな収納の方法を考えるのも、収納スペースの大きさと収納するものの量を一見して判断し、それを種類別に分け、分けたものをすぐに出せるようにするための道具やグッズを考え(これも事前に収納用の数々の品を記憶しておく必要があります)適当なものを選び、準備し、それぞれの分類をわかり易くどのように配置するかを考える。それらは全体と部分の協力によるネットワーク化という脳の働きがなければ無理だと思います。

 

 しまい込んだものが外側か見えないために解らなくなってしまうことをみなさんも経験しているのではないでしょうか。最近は片付けられない主婦の話をよく聞きますが、原因は脳のネットワーク化がされないことにあるのではないかと思います。

 

 また、料理においても主婦のみなさんは日頃から経験されていると思いますが、冷蔵庫の中身を大体記憶し(日頃から冷蔵庫を開けるたびに、残っているもの、優先して使うべきものなどの記憶が必要)それらを使って、(全部使うか、一部を使うか、その残りはいつ、どう使うかなど)その日に食べたいイメージ(あっさりしたものかこってりしたものかなど)にあったものを、どのような料理方法で仕掛けるか?ということを考えながら料理にかかりますが、その際冷凍保存したものなどを使う必要があれば、料理の何時間も前から解凍する必要があります。

 

つまり、主婦はいつも食べることより作ることに意識を向けなければならないので、常に冷凍室や冷蔵庫、食品、食材などのストックへの注意を自然にしています。また、そのことが苦痛や負担を伴うものではなく、常にリンクする習慣によって、食材を一見しただけで、献立のイメージが湧く、ということを何の苦もなくやってのけてのけます。そうでなければ食品を腐らせたり、ストックがあるのに、買ってしまったりという無駄が生じ、家計に直接響くからです。これらは何層ものネットワークでリンクされていなければ、実用にはなりません。

 

 また、衣類についても同様に、素材の質、織り方、裁断(横目、縦目、バイアス)、縫製、染め方を見た目や触感などできっちり脳に記憶させ、型崩れしやすい、色が出やすい、縮みやすい、伸びやすいなどで、洗濯の方法を分ける必要があります。同じ綿の布であっても、東南アジアの地方で作られたものは、染めが弱く色が出やすい。また織りが粗い、など海外製品によって、それぞれ特徴があります。それらをいつも注意深く観察しながら、脳へ記憶させておかなければ、そういう配慮ができません。そのように日頃の記憶リンクがなされていないと、失敗を恐れて全てをクリーニング屋さんに任せるしかなくなり、生活費はそれだけ嵩むことになります。

 

 そういう意味では主婦の仕事はまさしく「リンク脳力」といえるかもしれません。

 

 また、日頃から若い人たちが何気なくやっているファッションにおいても同様です。手持ちの衣類をどのように活用し、少ない数で多様なコーディネートを楽しんだり、ちょっとした小物の追加、重ね着などによって異なるイメージを表現したり、それだって立派な「リンク脳力」です。

 

 日常のあらゆるモノ、事にはすべてそれだけで成り立っているものはなく、その背景があり、関連するモノ(事)があるはずです。それを見ることができるのは「リンク脳力」ではないかと考えます。そして、その「リンク脳力」こそ、イマジネーション「想像性」を生み、独自のオリジナリティー「創造性」へと発展する源であろうと思うのです。

 

 インターネット普及のお陰で、マニュアル情報には事欠くことがなくなり、便利になった裏で、常にマニュアルに頼ることしか知らない人間も増えているようです。そんな人たちはやはり本当の意味での人間的「快」を経験することは難しいと思うのです。人間の「快」はイマジネーション「想像性」とオリジナリティー「創造性」によってもたらされる部分が大きいからです。

 

次回はこの「リンク脳力」へのブリッジについて触れたいと思います。

 

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快に生きる技 Vol.

 

 

「リンク脳力のブリッジ」

 

 さて、先回では「知っていたけど思いつかなかった」という例から、「リンク脳・脳のネットワーク化」についての必要性を述べましたが、今回はその「リンク脳」へのブリッジについて触れたいと思います。

 

 まず、はじめに脳がリンクするときはどういうときか?を考えてみました。

情報が脳に入る、ということはその情報を自分が選択していることです。つまりその情報は自分が興味を持てる情報といえます。

 

 もし、自分には関係のない情報、興味のない情報であれば、それについては潜在的に脳は無視してしまいますから、極端に言うと見えない、聞こえないということにもなります。

 

 例えば、二人の人が同じ列車で同じ目的地に行ったとします。

その数時間の間、二人は窓外の同じ景色を見ながら目的地へと向います。

列車の外に広がる景色には、いくつもの看板が乗客に向けて建ち、その看板や田園風景などの景色、家並みを二人ともに同じように見ているはずです。

でも本当に同じに見えていたでしょうか。実際には二人が見たものは異なるといっていいでしょう。お互いが見えたものは、それぞれが興味を持つもの、関心のあるものしか目に入ってはこないのです。

 

 例えば、「あそこで咲いていた花、あれって何ていう花?すごくきれいだったでしょ」「えっ、どこで?どんな花だった?」とか、また「あの地域は○○っていうお酒が有名なの?おいしいのかなー飲んだことある?」「えっ、お酒?何処の?そんなお酒あるの?」というように、まるで二人は違うところから別々に目的地に到着したかのように、全く異なる景色を見ていたのです。

 

 

黒澤明監督『羅生門』(らしょうもん)は、そういったことを題材にした映画でした。

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Wikipediaより引用

 『羅生門』(らしょうもん)は1950年8月26日に公開された日本の映画。黒澤明が監督したモノクロ映画の代表的作品。原作は芥川龍之介の短編小説『藪の中』だが、同作者の短編小説『羅生門』からも題材を借りている。

 

1951年のヴェネチア国際映画祭グランプリを受賞し、西洋に黒澤明や日本映画が紹介されるきっかけとなった。また、対立する複数の視点から同じ出来事を全く違う風に回想し、真実がどうだったのか観客を混乱させる手法は、アメリカや中国など多くの国の映画やフィクションに影響を与えている。

 

完成時に大映の永田雅一社長は「この映画はわけがわからん」と批判していたが、ヴェネチアに出品されグランプリをとると、永田は一転して自分の手柄のように語った。後年、黒澤はこのことを自伝『蝦蟇の油』の中で、まるで『羅生門』の映画そのものだと書いている。

 

 

[編集] あらすじ

盗人の多襄丸による、武士の殺害とその妻への強姦事件。この事件について、多襄丸と武士の妻と武士(死んでいるので霊媒師を介している)と目撃者による4人の証言は全部食い違っていた。

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こうして、興味や関心という潜在意識が選択した情報は脳に入るのですが、それらがリンクするのは?という問題が出てきます。

興味や関心といったものも、個性を形成する一つ重要な要素です。

脳のリンクもこの個性によって作られ、またリンクによって個性が出来上がるということではないかと思うのです。

 

 例えば、誰かと会話中に、頭で考えている以上の最高に的確な言葉が、ふとほとばしり出て、自分でもそのジャストフィットのタイミングに驚き(上手い表現だったと)自分を褒めてやりたいと思った経験はありませんか?

また絵を描いたり、詩の創作をする際、自分の考えではないような表現が生まれたといった経験はありませんか。

 

 自分が表現することは自分の脳内に記憶しているものしか出ないはずです。自分では忘れていても、いつかどこかで入った情報の記憶が、考え込むという時間を経ずしてジャストフィットのタイミングで発現する。それを発想というのかもしれませんが、まさにその瞬間、ネットワークが繋がりリンクしたのではないか、そんな風に感じます。

 

 実は、これまで瞬時に脳内の記憶が発現しない「知っていたけど思いつかなかった」という人から発見したことは「記憶の出し惜しみ」ということにあるような気がしています。新聞を読み、ニュースを見、本を読み、毎日洪水のような情報を浴びせられるのですが、それを外へ出すことがない。そのことによって、せっかく入った情報も役立つ機会を失して、ゴミと化してしまうのでしょうか。言ってみれば「脳の新陳代謝」の不良ということになります。

 

 「新陳代謝」とは英語ではmetabolism(メタボリズム)です。入った情報の出口がないことによる「脳のメタボリック症候群」というわけですね。

 

 「体のメタボリック」の解消のためには、食べる量を減らしたり、運動をして燃焼させる努力をします。

「脳のメタボリック」も同じように、洪水のように降り注がれる、一方的な情報を浴びる時間を減らし、情報の出口となる『脳を使う』という燃焼時間を増やすことが重要な鍵になるでしょう。

 

 結論は「リンク脳力」のブリッジは、表現中の発想ということになるかもしれません。それがネットワークとなる。ブリッジが手を伸ばすためには、表現活動が不可欠となるということです。

 

 私はこれに一番適しているのが『創意工夫』で独創性を呼び覚ますことにあると思っています。『創作』は芸術というような大げさなイメージを抱くでしょうが、『創意工夫』は日常の生活の中のほんの些細なことにも関連し芸術的創造や、発見、発明につながるものが沢山あります。

むしろそういった、日常の些細なことのほうが大切で、歴史に残る発明、発見なども、そういう日常的な些細な発想から生まれたものが多いのも、生活に直結したところからの『工夫』と『創意』の積み重ねによるものと思います。

 

何かを作り出す、そのことは地位や仕事の価値に関係なく、個々がそれなりにこれまで蓄えてきたものをつかって、組み立て、構築する作業です。そして足りない情報を能動的に追い求める作業、これも大変手ごたえのある充実感をもたらします。

 

こういった活動の最中には躍動的な情動感に包まれ、ワクワクとするものです。それがブリッジという手を伸ばす作用を起こすのではないか、ブリッジの好むホルモン分泌の作用によるものではないか、そんな私風解釈をしています。

 

いずれにせよ、自分を表現すること、それはなかなか面白いことです。自分の好きなものに集中することにもなるのですから。

 

ところが、社会の一線で活躍していた人が、いざその一線を退くと、「何もすることがない」「好きなこともわからない」という日本人も多いようなのです。

 

 そしてそういう人の口癖は「いまさら」です。もったいないことです。

でも、何かを探すのは「いまさら」でも、幸せに日々を過ごすことや食べることに「いまさら」はありません。まず食べたいものを作ることからはじめることも一考の価値があるのではないでしょうか。

 

 人間、何にも興味が湧かなくなるということは、多分死ぬまでないような気がします。興味のあるものからはじめて、そこにつながっている糸を手繰り寄せる、そのことが好奇心を旺盛にし、能動的に情報を求め、それが能動的に脳をネットワーク化させることにつながって行くのではないか、そんな風に思います。

 

 とにかく年齢によらず「リンク脳力」は限りなく広がってゆくことは間違いありません。それをつかってどんなに小さくても社会貢献につながるなら、生きる醍醐味を味わえるのではないでしょうか。

 

 

追伸

「サッチャー元首相認知症に」という記事が、丁度この原稿の校正をしているときに目にとまりました。英国において長期に渡って政権をとり、世界でも一目置かれていた方です。
詳細

故レーガン元大統領もアルツハイマーとの長い戦いの末2004年6月5日死去しています。

 

彼等のように、日常とかけ離れた仕事を長く続けていると、日常とは遠ざかってしまい、仕事を退いた後に日常に身を置くことができなくなるのでしょうか。

多分、あまりにも特別な地位にあったために、本人も家族も日常生活の諸事には近づかない(近づかせない)こともあるのでしょう。

でも、引退後は仕事が激減するはずですし、それに比例して人間関係も激減することでしょう。

 

 引退したら、あれもやろう、これもやろうと思っていても、いざ引退しぽっかりと時間が空き、周囲の人たちも蜘蛛の子を散らすように散り散りになって消えてゆくと、次第にやりたいことへの意欲よりも、スケジュールに追われ、人に囲まれ、権力すら行使していた過去の自分との価値比較が始まり、喪失感や未練が執着に変わってしまうのか。

そういった精神的空虚感から、余計に過去からの決別そして穏やかな生活への移行を自らの潜在意識が拒否してしまうのかもしれません。

 

あれもやろう、これもしたい、というのは自己表現です。人間は常に何らかのかたちで自己表現をすること、そこに「生きる」幸せがあると思います。

ところが引退後、自由な時間という当時は得がたいものを獲得したにもかかわらず、そういった本来の人間の幸せという目的よりも、地位や権力、仕事の価値といったものへの執着が潜在意識を牛耳っていると、空虚感、喪失感によって、目的と手段を取り違えてしまうことになるのでしょう。

 

それまでつかっていた脳のネットワークが使われない、役に立たないという状況からでは、脳が好むホルモン分泌はどんどん減少し、それまでのネットワークのブリッジも壊れ、それが細胞を壊死させてしまうのかもしれません。

 

常に日常と密接に接している私たちは、そういった心配もありません。

みなさんの「リンク脳力」に期待します。

 

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快に生きる技 Vol.

 

「階層志向の壁」

 

 先回の「リンク脳力のブリッジ」で、脳の新陳代謝不良によるメタボリック症候群の説明をしました。その解消には、体のメタボ解消と同様に、代謝を促す脳の運動、つまり脳の情報を外に出す「表現」の重要性(創造活動)についてお話したのですが、そういった表現運動(脳動といったほうがいいかもしれません)を阻む「壁」の存在について今回はお話したいと思います。

しかしながら、このテーマについて本当に伝えようと思うことの全てを紹介するには、一冊分の本くらいになってしまうほど、大きな問題なので、メルマガの何ページかにまとめるのは非常に困難なのですが、どうしても「階層志向」が障壁になっているということだけでも、ほんの少し理解していただければ、何かのキッカケになるかもしれません。僅かなキッカケでもそこから脳動スイッチを機能させ、リンク脳へのブリッジに役立てばと思い、敢えて挑戦してみます。

 ところで、何度もおことわりしていますが、これは専門化の医学的根拠を基にしたお話とは異なり、あくまでも「快に生きる技」として、私の経験した結果から、それを分析し私の主観を紹介するものです。その点ご了承の上お読み下さい。

 さて「階層志向の壁」とは。

先にも触れ、ブログにもちょっと書いたことがありますように「人が二人寄ると上下(関係)ができる」と言われますがこれが階層志向です。これは「競争志向」「勝負志向」の基にもなります。

 最初、このテーマを決める際、階層志向を階層思考にしようか階層嗜好にしようかと迷いました。思考の根幹でもあり、嗜好性癖でもあり、志向でもあるからです。実をいうと未だにどの文字が一番妥当なのか、志向に決めてよかったのか自信がありません。読者の方が読まれた後で、妥当と思われる字を投入していただけばよいと思います。

 「階層」とはヒエラルキー。ピラミッド型のどこかに当てはめることです。「二人寄ると上下の関係ができる」というのも、階層に置き換えるからです。
そういった思考をしない人は、どっちが上とか下とか考えません。でもどちらか一方が勝手に上下の関係を意識すると、何となく成立してしまうものです。

また、どちらかが、またはお互いが対抗意識を燃やすことで、そこから闘いがはじまります。こうして、それぞれが初対面のときから無意識に相手を秤にかけて、自分より上か下かを判断してしまう癖(勝った負けたと)、またそれよりももっと上の人、下の人は自分の近隣の階層にいる人とは更に区別(差別)します。

この「階層志向」こそ、直上・直下にしか意識を向けない壁になってしまっているのではないのか、という疑問からこのテーマの必要性を感じました。ですから、近所の人、会社の同僚、サークルの友達、などには意識が向いても、それらを抱有する社会、国のシステムへの意識が薄弱になってしまう理由にもなっているのではないかと思うのです。

 犬や猫などのペットを見ると、やはり上下関係を決めていることがわかります。特に犬の場合はそれが顕著で、自分の飼い主が甘い顔して自分の言いなりになると知ると、犬のほうが主人面して、飼い主を振り回し、手のつけられないやんちゃ犬になるようです。

 それを躾けなおして、飼い主がボスであり、従うべき存在であることを教えると、人(犬)が変わったようにおとなしくなる、ということが知られています。

 このように、動物は同類との関係において、上下関係を結ぶことから関係が成立するようです。だから人間も同様か?同様と言えるかもしれません。もしも人間も動物のそのような本質で動かされているとしたら「階層志向の壁」を取り払うことは不可能でしょう。ですが私はそれをそのまま受け入れて終わりにしたくないのです。人間と動物の違い、それはこの辺りにあるような気がしてならないからです。

 もし、人間が動物と同じように、ボスを嗅ぎ分け、ボスに隷属する能力だけで生きる、そういった処世術を訓練し、それを自慢にしてしまったら、それは人間らしさを捨ててしまうことにはならないか?そう思うのです。

 多分、この辺りで〈それ以外に上手く世間を渡って生きる術なんかあるのか〉という疑問が出ている方も多いことでしょう。それくらい私たちは社会の中で「上下」を意識して生きているということですよね。

 「神」という人間が超えることのできない存在を作り出した人間。その「神」が人間を神に似せて作ったという概念(欧米中心の思想)は、この「階層志向」の大きな支えでした。ところが新世紀に入った今「神」という概念それ自体が力を弱め、特に日本においては、多様な宗教とともに、もともと堅牢な信仰心に裏づけされていなかった葬式仏教と言われる仏教の社会的立場によって、「神」や「仏」の地位は、欧米ほどの絶対性を持ってはいなかったのですが、「聖、俗」の精神だけは根強く残されているようです(もしかしたら天皇制の影響なのか?)。これが「階層志向」の源泉なのかもしれません。

 また、仏教に興味を抱いた欧米人たちによって、仏教真理による精神論が「階層志向」にはないことを紐解いたことも手伝い、日本人の信仰する先祖崇拝とは異なる仏教の真理が世界に広がり、特に密教的世界観は、ひたひたと浸み込みはじめ、ニューサイエンスの概念とも相俟って、新しい世界観の潮流がはじまったと言えます。

 21世紀のビジョンを提言している人たちの多くが「階層志向」の幕切れを予言するようになったのも、このことから頷けます。

 多様性、複雑系、カオス、共時性(シンクロにシティー)、ホロン(全体性)、フラクタル幾何学(自己相似性)、ファランステール(小さな共同体)的ユートピア、メタボリズム(新陳代謝)、メタモルフォーゼ(変身)、場の理論、関係性、といった新しい概念は、秩序立てた階層から、階層のないカオスの世界を取り込み、複雑な生命のシステムからのヒントによる新しいネットワークの関係を示唆している概念であると思っています。

 個々についての説明は、いずれその機会があると思いますので、この場では省略しますが、ただ世界的に科学者間ではそれらの研究がかなり進んでいることを紹介するのみに止めます。例えば「持続可能な社会」などという言葉も、今では聞きなれた言葉になっていますが、「パーマカルチャー」の思想から始まったものです。

 さてそこで「階層志向」に変わる具体的なシステムは?ということになります。
「階層志向」では自分がいつもどの階層に位置しているかを意識する価値観です。
それは常に他人と自分を比較し、少しでも他人を出し抜くことを目標にし、努力することを強いられます。もし、立ち止まって比較を止めてしまったら、自分の位置はどんどん下位へと落とされて行きます。そういう人は「落ちこぼれ」と呼ばれるジャンルへ分別されます。

 一生懸命努力の末に、たとえ、階層のトップへと上り詰めたとしても、トップ争いは永遠に続きますから、転がり落ちない限り、死ぬまで闘いが続くことになります。ところがこの社会を作り出した人間たちは、若い者への機会をつくるためにと、定年制をつくり年寄りは排除することにしました。

 こうして排除され、分別されてはじめて戦場から帰還するのですが「階層志向」の意識は変わらないそのままですから、戦場から帰還した途端、人間としても排除され、自分自身も人間らしさを保てなくなってしまう。そんな人たちで溢れてしまっているのが現代社会の現実です。

 これこそ、人間を絶対に幸せに導かない障壁ではないでしょうか。そんな社会の現実に抵抗して、こんな歌が流行りました。

 

『 世界に一つだけの花の歌詞 』(スマップ)

 

(NO.1にならなくてもいいもともと特別なOnly one)

花屋の店先に並んだ

いろんな花を見ていた

ひとそれぞれ好みはあるけど

どれもみんなきれいだね

この中で誰が一番だなんて

争うこともしないで

バケツの中誇らしげに

しゃんと胸を張っている

 

それなのに僕ら人間は

どうしてこうも比べたがる?

一人一人違うのにその中で

一番になりたがる?

 

そうさ 僕らは

世界に一つだけの花

一人一人違う種を持つ

その花を咲かせることだけに

一生懸命になればいい

 

困ったように笑いながら

ずっと迷ってる人がいる

頑張って咲いた花はどれも

きれいだから仕方ないね

やっと店から出てきた

その人が抱えていた

色とりどりの花束と

うれしそうな横顔

 

名前も知らなかったけれど

あの日僕に笑顔をくれた

誰も気づかないような場所で

咲いてた花のように

 

そうさ 僕らも

世界に一つだけの花

一人一人違う種を持つ

その花を咲かせることだけに

一生懸命になればいい

 

小さい花や大きな花

一つとして同じものはないから

NO.1にならなくてもいい

もともと特別なOnly one

 

 

 人間が生きのびるために勝ち続ける、という比較、競争の価値観では、当然出し抜くための駆け引き、嘘、といった本人にとっても喜べない、二次的な不幸の原因を選択してしまうことにもなるでしょう。つまりこの「階層志向」の生き方は、闇へ闇へと向う人生の旅に見えてきます。

 先日、作詞家の“なかにし礼さん”がこんなことを言っていました。

「僕は、神も仏も、天国も地獄も信じないけど、今、この瞬間、それが天国と思える。そう僕は天国人かな!」と。

 この世界観こそが先にお話した密教的世界観と理解しています。

 そこで、オンリー・ワンの自分とオンリー・ワンの他者とは、どのように関われるかなのですが、そのヒントになるのが、次世代コンピューターの理論、「インデックスファブリック」として概念ですです。

 これまでのクライアントサーバー時代のデータ技術は、どこかにデータを集中し、そこから出して使うための技術ですが(リレーショナルデータベース)、ネットワークを構成する一つ一つの要素が、データを格納するストレージになりうるものでなければならない(インデックスファブリック)。という新しい理論です。これがメッシュ状のネットワークを可能にし、個々の要素の直結を実現してくれるというものです。(難し言葉が並び私自身はイメージとして捉えていすが、専門的システムの詳把把握までには至っていません)

 これって、脳のネットワークに似てませんか?

そう、生命のシステムは「階層志向」によっては成り立っていない、ということがよくわかります。

である以上「階層志向」で比較、競争をする戦場から自らの意志によって早く帰還し、フラットなネットワークのための関係、上下の差もなく、勝った、負けたという結果重視から、プロセスを楽しむ方向へ、「ネットワーク志向」はそういった『明るい方へ、明るい方へ』と進む、大きな要因に成りうるのではないでしょうか。

 

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快に生きる技 Vol.

 

続「階層志向の壁」

 

 階層志向の壁とは別の言い方では、「序列組織(社会)」ということができます。

早く言うなら「縦社会」そのものです。この中で生きようとすれば、誰もが階層(縦型)志向になるのは当然。そうやって私たちの脳は自らが属する環境によって仕立てられてゆくということです。

「二人寄れば上下ができる」というのも、まったくこの縦型の志向性が原因と言えます。

 先日来から事故米問題が露呈し、救急妊婦が19病院で受け入れ拒否され死亡しと、社会的良識者といえる組織においてさえも(むしろそれ故にと言えるかもしれません)、自己中心的行動による問題が続々と噴出し、国民を不安に陥れています。そして年金改ざん問題、省庁、自治体の裏金問題、また長野県の「紀元会」という宗教団体で、100人に及ぶ集団リンチのために主婦が死亡したという事件もありました。

 これらはすべてピラミッド型「階層」縦型の構図によって、個人の主張を発現するのが難しいシステムが出来上がってしまった結果、上記のような事件、事故が起きやすい土壌を作っているということが問題なのではなかろうかと感じています。ですからこのような事態は必然として起こるべくして起きたというように考えるのです。

 階層志向の構図では、規制やトップダウン式の命令がモノを言います。それは下層部の統制が目的であり、トップはその都度都合の良い解釈で回避することができるものになっているようです。それが農水省の事故米処理の規制や通達にもみられます。上層部にへつらい下層部には威張るという形が常識となり、下は上に逆らえず、上は下を隷属させることになります。

たとえ上のものの人格がどうあれ、逆らうどころか媚へつらうことでしか、自分を守ることが出来ない仕組みになってしまうのが通例です。

 ところが責任の所在はというと、はっきりしないのも常です。その理由は下への命令は細部に至るものではなく、大きな方向性を示唆するにすぎず、下はそれを具体化し、実行できるような形にすることが役目です。そういった細部の内容については上層部に報告はされているのでしょうが、上はそのすべてを把握せず、そのまま実行されることが多いからなのかもしれません。

 ただ物理的に、最上部が下層部の全てを把握することは不可能に近いものがあります。周囲もそれをわかっているから、どんな過ちも許してしまう。その方が自分の得につながるかもしれないから。反対に上部に逆らったり批判したりして得になることは決してないと思っているということでしょう。

 なにしろ、階層志向は横に居る者との比較、競争が仕事ですから、直上の顔色を見ることと、隣にしか意識が届きません。トップは自分の部下に丸投げすることが仕事ですから、末端がどのようになるかというところまでは感知しません。丸投げされた部下は、またその部下に丸投げし、投げるところがなくなった位置まで下りてから具体案が作られとなると、そこではますます全体を視野に入れたものなどはできるはずがありません。もしそのようなものを作ったとしても上に上げられる時点で、修正されることは間違いありません。

 結局誰もが上層部の建前の裏側にある本音をどのように汲み取るかに汲々とするばかりで、全体の方向を見てはいない、また見る気もないということです。

これが、階層(縦型)志向の仕組みの大きな問題点だと思うのです。

 集団リンチで100人もその場に居ながら、誰も止めることができなかった。たった一人の幹部の意向に100人全員が従ってしまい、そのために罪のない女性は暴力から逃れられず死に至ってしまった、なんて常識では考えられないのですが、いざ、序列の中に入ってしまった人たちは、上に逆らうことは大変困難な環境となってしまうのです。

 “空気読めない”と批判される人は、どこにも属すことができない人という烙印を押されたことになるようです。

 オーム真理教によるあの恐ろしい事件も同様でした。高学歴で頭脳明晰な若者たちが、一人の教祖という権力者を信頼し従ったことによって、へつらい、顔色を見ながら言葉の裏側をさぐり、教祖の意思を我さきに推し量って一生懸命仕事をした。それが結果的に極悪といわれる行為だった。そのことに気づいたのは刑に服してからだった。そして、教祖は部下が勝手にやったと。まるで、はじめに紹介したニュースの問題と同じ構図ではないでしょうか。

これらは特別な人たちによる特別なことではなく、階層システムの中で生きる者全てに可能性を孕んでいるといえるでしょう。

つまり、自分のボスになる人の人格によって、自分の人生は決定付けられてしまう。そして決定付けられた結果、誰もが悪事に手を染めかねない、ということになります。

ボスを選ぶのは自分だから、といえないところに階層志向の罠があります。階層志向では、高階層=高人格と錯覚する癖があるからです。上層の位置にいる人とは、それだけ組織全体、社会全体に認められた支配者であるという思い込みが原因なのでしょう。階層の仕組みは必ず支配権を持った権力者を作ります。そして上層(権力者)の意思=全体の意思と解し、全体の意思に沿う(権力に従う)ということが自分の意思になっているからなのです。

子供社会に限らず、大人社会においてでも、体育会系といわれる組織の中での集団暴行、そして一般的に起こっているいじめによって自殺に追い込むなど、それらは同じ土壌から発生しているものと考えられます。

 また、この階層(序列)縦型社会では、直感的に自分にとって「損」か「得」かを考えてしまうという習性が養われます。上にへつらうのも、下に厳しいのもそのためです。

常に「損得勘定」が行動の根底にあると、救急車で搬送された妊婦の受け入れにも面倒を背負うことを避けるためにそれが働き、農水省の事故米担当者は、倉庫に眠った大量の米の処分は与えられた任務であり、早くそれを処分することは目前の最大の自分を守るための手段なのですから、業者(三笠フード)に買い付けを頼み込むのも、不正転売を黙認するのも、「極力主食に」という通知書も、任務の遂行の手段として必要なものであったということになります。

“空気を読む”ということが暗黙のうちに重要なコミュニケーションの手段とされ、そのことに長けた日本人、そういった志向態度が一番陥りやすい落とし穴といえるのが、同列での足並みを揃えるという習性が生んだもう一つの悲劇、集団リンチです。

宗教の信者でさえも暴力は悪いと知りながら、リンチを目前にし、それを止めることができず、標的にされた人が死に至るまで、ただ黙って見過ごしてしまう、そんなことがあたりまえに起こってしまうということになるのです。

「事故米」食用に販売OK通達 「書き間違い」と農水省弁明

2008/10/27     J-CASTニュース

   「事故米を主食用として卸業者に売却する」――。こんな記載がある農林水産省が農政局や農政事務所などの所轄に宛てた、「総合食料局長通知」が見つかった。農水省はJ-CASTニュースに対し、「書き間違いという単純なミスだった」と弁明している。ただ、この通達を受け取った現場が、農薬や毒カビに汚染された「事故米」も売却可能、と受け取る可能性もある。さらに、現在も正式な訂正はされておらず、単純なケアレスミスなのかどうかの疑問すら残っている。

   問題の通知書は「物品(事業用)の事故処理要領」というタイトルで、農林水産省総合食料局長通知として2007330日付けで出されている。ここには米や麦の「事故品」については「極力主食用に充当するものとする」と書かれている。

   「事故品」というのは、米や麦を入れてある袋が破けたというものから、カビが出たもの、残留農薬があるものなど。また、農薬や毒カビに汚染され主食用不適と認定された米穀は「事故米穀」とし、非食用として処理する、としている。しかし、この「通知」を読み進めると、

「事故米穀を主食用として卸業者に売却する場合において・・・」と書かれ、値引きした場合は局長(計画課)に申請しなければならない、といった売却方法の手順が説明されている。「事故米」の食用転売を農水省が自ら進めている疑惑が出ても不思議ではない。

   この文書を見つけたのは日本共産党の紙智子参院議員。参議院の農林水産委員会に提出された資料の中にあったもので、配布された当時は「事故米」事件は発覚していなかった。70ページ以上に及ぶ分量だったこともあり、見逃されていた。紙議員がこの通知書を改めて精査し、発見した。紙議員の事務所では、

BSE騒動以来、農水省は食の安全を政策の中心に置くと言っていたが、それが全くのウソであることを証明するもの。今後、国会の場などで事故米について追及していく」J-CASTニュースに話した。

   今回の「事故米」騒動については、三笠フーズなど米粉卸業者が工業用糊などに使うなどとして「事故米」を仕入れ、食用として偽装転売した。仕入先は農水省なわけだが、三笠フーズなどに対し、地方の農政局が積極的に「事故米」の売り込みをしていたことも明らかになっている。「事故米穀」は「事故米」のことで、食用にはならない米だ。

「通知書があるということすら知りません」

   農水省総合食料局消費流通課はJ-CASTニュースに対し、カビや農薬に汚染された「事故品」でも、食用が可能と判断されれば「主食用」として販売していることを明らかにした。その上で、「食べられない」非食用と認定したものは工業用にしか販売していないとし、

「通知書に書いてある『事故米穀』の主食用の販売に関する記述は、『事故品』の書き間違い。非食用を食用として販売することはない」

と話した。ただし、農水省の担当者はJ-CASTニュースの取材で初めてこの記述を知ったようで、「事故米」を業者に卸した地方の農政局事務所が、この通知を信じて従った可能性については、

「書かれているわけですから、信じる人が出る可能性はありますが、非食用を食用として売るなどとは考えられません」と話している。試しに、三笠フーズなどに「事故米」を販売した北陸農政局に取材したところ、担当者は、「そのような通知書があるということすら知りません」と話していた。

以上J-CASTニュースより引用


こういったことは、自分さえよければという考えで物事を進める思考形態、階層志向によってなせることです。

通達とは、役人の命令ですから、民間が従うためのものです。それを「知らなかった」とか、「間違えた」とサラッと言えるということ自体、国民をバカした行為なのですが、それが階層社会、序列社会ではあたりまえに通ってしまうのです。

 このお役人たちも、上に従っただけですから、悪いことをしている意識は毛頭ありません。厚生省の管轄である、年金の不正においても同様なのです。

 序列、階層の中に仕組まれた人たちは、こうして知らず知らずのうちに、常識的には悪いとされることですら、悪いという意識はなく、上に従うことだけを一生懸命やっているだけなのです。

 これは、戦時中における日本では特に著しく、統制という形で社会が形成されていました。お国のため、という大義名分で言動を統制され、多くの人がちょっとした言動のために暴力に屈したと聞きます。権力者の代理人が権力をふるうことを許されていたからです。

そしてこのことはそのまま北朝鮮の統制国家にも通じる道なのです。

 その道では、「隣人を愛する」こともなく「全体の向上」も個人的な視野には入りません。「○○の為」というのは大義名分です。常に「自分を守る」ことだけが優先されます。誰とも深くつながるという関係性は持たず、「利用できるもの意外はすべてが敵」なのですから。

 そういった階層志向体系の中で、幸せを願ったとしても決して得られるはずがないことは、言うまでもありません。どこまで行っても「怯え」と「不安」に追いかけられ、そこから逃げるということは、序列、階層から外れることしかないからです。ところが一旦階層、序列の中に入ってしまうと、そこから外れることは人間としての価値までもなくしてしまうのではないかという恐れに陥ります。低層以外の人にとっては、階層、序列を外れることは困難と言えるでしょう。

階層、序列にしがみついしまうのは、それで甘い汁を吸う(得をする)と感じられるからでしょう。そんな上層の人たちに任せても決してそれが壊れることはありません。それに加えて上層に憧れる人(階層志向人間)が多いということも大きな問題です。

 子供を一流の大学へ入れようとする親も、そういった思考が基になっています。お金儲けだけに走る人も、お金を掴んで階層の上層部に加わりたいからでしょう。
なるべく、上を減らして、下を増やせば、それだけで「得」を得ると思っているからなのでしょうか。

これって「ねずみ講」の構図と同じじゃないですか。

最下部から最上部へ吸い上げるポンプを作り、最上部に集まった蜜を、そこから順に下部へ分け与えるシステムです。当然最上部が権利を握っていますから、どこへどれほど分配するかも最上部の意のままです。

上層部にいかなければ甘い蜜には決してありつけない。甘い蜜を集めるために上層部同士は結託して、吸い上げるポンプを維持することを怠らない。その見返りとして権力者から分配を受けられるからです。

そして、それ以下の人々はいつも「骨折り損のくたびれ儲け」の結果だけ。それでもそれを何とか取り返そうと、皆がこぞって上へ上へと目指して働き続ける。

 ところが、全員が上へは行けない仕組みであることを忘れてしまっているのです。ピラミッド型は底辺という大多数の基盤に支えられて成り立っているのですから。

しかしながら残念なことに、自分がどの位置にいるかということを、はっきりと見極めることが難しい仕組み(全体が見えない)なのです。よほど両極に居ない限りは位置の実感がないというのがネックになっています。

もう一つは、たとえ低層部に位置していたとしても、自分ではそれを認めたくないという心が働くということもあります。また底辺ほど数が多くなっているために、隣も同じように苦しんでいれば、それがあたりまえと思い込むこともあります。困窮であろうとも、同じ立場の人が多いほど、安心してしまう、ということでしょうか。

 この構図「おかしい」と思いませんか? 

本当は、そんな上にへつらい、下を従える、という階層を取り払えればいいのですが、そんなことはできないと思い込むことにも問題があります。それを取り払い、パラダイムシフトを起こすには、国民のみなが「階層システム、序列社会はおかしい」と思うことが第一ですね。

 家族制度で、「主人」「家内」という立場の呼び方も、このような序列をはっきりさせる言葉の一つで、家族という最小組織に根付いた縦社会の原型です。私はフェミニストではありませんが、男が上、女が下、または主従という発想は好きではありません。

 もともと、こういった発想は「相対観」といった観念からきたものなのですが、自給道楽では「相対観」という二元論を廃し、「関係性と全体の総和」を重視したいと考えています。その理由は上記のような問題から脱皮するためなのです。

 上下、優劣、自他、大小、男女など、すべてがそれぞれの価値を持った世界観。そうした新しい世界はすでにはじまりつつあります。先回紹介しましたニューサイエンスの各分野での理論は、やがてそのことを実感できるような、パラダイムシフトへと導くことになるでしょう。既にこの階層志向の崩壊の兆しとして、アメリカから始まった世界経済の不安が起こっています。

 こういった時勢の中で、私たちは早急に新しい生き方を選択する必要性が指し示されているのではないでしょうか。


参考:毎日新聞記事より引用

 

<年金記録改ざん>「オンライン化前から」都内の男性証言

10242241分配信 毎日新聞

 厚生年金記録の改ざん問題で、東京都清瀬市に住む男性が23日、民主党の会合で、保険料の算定基準となる標準報酬月額(給与相当)を知らないうちにさかのぼって引き下げられたと証言した。改ざんの疑いがあるのは記録がオンライン化される86年以前で、社保庁が発表した改ざんの疑いがある約144万件には含まれていない。

 証言したのは無職の坂本泰治さん(60)。78年から都内の毛皮製品卸会社に勤め、81年7月〜82年4月の月給は24万円以上だった。だが今年4月に受給手続きをした際、81年11月から5カ月の標準報酬月額が9万8000円に下げられていたことが分かった。「同僚3人に確認したら、同時期に同様に引き下げられていた」という。

 坂本さんは6月、総務省年金記録確認東京地方第三者委員会に記録訂正を申し立てた。23日の会合で、82年6月から半年間受けた失業給付では、離職時の1日当たりの賃金は約1万円と明記されていると記録を示した。

 だが中央第三者委担当者は、雇用保険料が給与に見合って納められていても、年金保険料も相応に天引きされたとは言い切れないとの見方を示した。

 坂本さんは「実際には給与は下がっていない。早く記録を訂正してほしい」と主張。議員からは「やっと入手した雇用保険の記録で給与額が判明したのに、年金保険料の天引きの証明まで求めるのは酷だ」と指摘した。【野倉恵】

舛添厚労相:レセプト抜きの組織的関与を調査

 厚生年金をさかのぼって脱退させる不正な遡及(そきゅう)処理の発覚を、各地の社会保険事務所が隠ぺいしていた問題で、舛添要一厚生労働相は21日、閣議後の会見で「組織的関与の有無を含めて調べたい」と述べた。この問題では、さかのぼって脱退することで、政府管掌健康保険を使っての医療が無資格となるのを隠すため、社保事務所職員らが「診療報酬明細書(レセプト)を抜き取った」と証言している。舛添厚労相は「(加入者は)結果として(医療保険を)使っているが、保険者(社保庁)が支払うべきでない金を払っていた。標準報酬月額の改ざん問題の調査の中で、組織のうみを出し切る意味でもきちんと調査したい」と述べた。

年金改ざん:レセプト抜き隠ぺい 無資格者に医療費

レセプト抜き取りによる年金改ざん隠しの構図 

厚生年金をさかのぼって脱退させる不正な「遡及(そきゅう)脱退」を隠すため、各地の社会保険事務所が無資格者となった被保険者の診療報酬を政府管掌健康保険から肩代わりした上、不正が発覚しないように該当する診療報酬明細書(レセプト)を抜き取っていたことが、職員らの証言で分かった。年金保険制度のみならず、医療保険制度もゆがめてきた実態が明らかになった。

 中小企業が厚生年金を脱退した場合、被保険者の社員は政府管掌健康保険もぬけることになる。脱退時にさかのぼって国民健康保険に加入しなければ、この期間は無資格受診となる。

 総務省年金記録確認第三者委員会が社保事務所の処理で不適正と断定した66件(8日現在)のうち、17件は標準報酬月額(給与水準)の引き下げ、50件(1件は重複)は遡及脱退だった。50人は1カ月〜2年さかのぼって脱退させられ、ほとんどの人はこの間の診察は無資格受診となっていた。

 社保庁の調査では標準報酬月額の記録改ざんの恐れのある記録は延べ約144万件に上ることから、遡及脱退も相当数に上るとみられる。

 この遡及期間中、社員は健康保険証を使って受診しているため、社保事務所は本来なら無資格受診だったとして、病院側に診療報酬の返還を求めた上、社員が全額負担しなければならなかった。だが職員らによると、多くの経営者は社員に脱退を知らせず、社保事務所も不正の発覚を恐れて病院側に返還請求をしなかったという。

 さらに、病院から送られるレセプトに保険受診の記録が残るため、該当するレセプトを抜き取った上で別管理し、発覚を防いでいた。レセプトが電子化された02年度より前はこうした不正操作が容易にできたという。

 複数の職員や元職員は毎日新聞の取材に「徴収担当者から保険給付やレセプト点検の担当者に『徴収絡みだから』と伝え、点検時に抜いてもらった。抜いたレセプトは滞納処分票に挟むなど別管理にした。事務所で月に1、2件このような処理をしていた。診療報酬の返納を求めると不正処理が発覚するし、被保険者に気の毒。慣行だった」などと証言した。

 社保庁年金保険課は「不正については聞いたことがないが、問題が顕在化すれば個別に対応、調査しなければならない」と話している。【野倉恵】

 ◇ことば レセプト

 医療機関が保険者(政府管掌健康保険の場合は社会保険庁)に対し、患者の自己負担分以外の診療報酬を請求するために提出する投薬や診療の内容を記した明細書。中小企業は独自に組合を運営・維持できないため、政府管掌健康保険に加入し、レセプトは医療機関から社会保険診療報酬支払基金に送られ1次審査され、その後、社保事務所が診療が適切かや資格を点検(2次審査)する。政府管掌健康保険は10月1日、社保庁から独立する形で全国健康保険協会管掌健康保険に移行した。

紀元会集団暴行:元教団幹部に懲役14年求刑 /長野

 小諸市の宗教法人「紀元会」の信者、奥野元子さん(当時63歳)が教団施設で集団暴行され死亡した事件で、首謀者とされ傷害致死などの罪に問われた元教団幹部、窪田康子被告(50)=小諸市乙=の論告求刑公判が28日、長野地裁(土屋靖之裁判長)であった。検察側は「再犯の恐れが高い」として懲役14年を求刑した。
 検察側は「暴行態様は残虐かつ冷酷非道極まりない」と主張。弁護側は傷害致死罪について「群集心理で暴行がエスカレートした」と暴行指示を否定した。判決は11月7日、同地裁で言い渡される。【大平明日香】

毎日新聞 20081029日 地方版


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快に生きる技 Vol.

パラダイムシフト「人間の価値」

 

 階層志向の集まりである序列組織という縦社会では、自分の階位に価値を置き、階位を意識することになります。階位に伴う自己の利益に関わっているからです。上へ行けば得をする社会ということが、骨の髄まで浸み込んでいるからでしょう。つまり階層志向とは功利主義と言い換えられます。

 階位を維持し、またその階位を上げようとするには、縦社会においては必ずしも自分の能力を上げることとは限りません。往々にして上からの引き上げが不可欠となる場合が多く、そのために「評価」は重要な手がかりになります。このことは、ひいては上の価値観に追従することとなるでしょう。失敗を恐れて言われたこと以外は手をださないとか、責任を回避し常に安全圏へと逃げ込んでしまいがちになるのも、自分の利益につながらない「評価」を避けるためです。

 最近、テレビの番組でも「変わろう」「変えよう」というパラダイムシフトの動きがあります。そんな番組の中で、ビートたけし&爆笑問題による「日本教育白書」での石原東京都知事が「人間の価値」について語っていました。

石原都知事は高校時代(湘南高校)、仮病をつかって1年間休学していたことがあるそうです。その頃美術クラブに属し、ときには狂気を漂わせるような退廃的な絵を描いていました。あるとき美術の新任先生に自分は黒を鮮明な色と感じていることについて訊ねたたとき「黒は白い紙に描くと他のどの色よりも鮮明だと思う」そして「四角いものが丸く見えたら、丸く描けばいいんだ」と言ってくれたそうです。そのことで、はじめて「感性の自由を保証されたように感じた」

石原都知事にとって「人間の価値とは、他人と違うという個性にあるはず。個性の裏づけになっているのは感性、情念。そして感性とは自由なもの、自由であっていいもの」だから「人間みなピカソなんだ」と語っていました。また、いい先生の条件についての質問には「感性を育てる人」という回答をされていました。

「人間の価値」とは、一人ひとりの個性にあり、一人ひとりの感性、情念がそれを支えているという考え方は、快に生きる条件として、一番大切にしていることです。それゆえむやみに自分の感覚を軽く扱って曲げてしまったり、無視したり、いわんや他人の感性を否定することなどは決してすべきことではないと考えています。

 縦社会の中で上手く生きる技を習得すると、この「個性」や「主観」という自分の感性、情念は表面化することを抑えなければなりません。

階位に価値を置く階層志向においては、上から下までトップダウンの同じ価値観を要求されるからです。その代表が官僚体制です。

 そしてそのような体制の価値観を使っているうちに、体制の要求するトップダウンの価値観=自己の価値観となって、無意識にまで浸み込んでしまい、組織内の「正」が組織外の「不正」であったとしても、それを自覚する意識は働かなくなってしまうのも当然といえます。いちいち考えたり、検証したりしていては、組織内では生きていけないからです。

「四角いものが丸く見えたら、丸く描けばいい」と美術の先生は言ってくれた。そんな石原都知事の体験は、この階層志向の統一価値観では相いれないものがあります。

 モンスターペアレントやモンスターペーシェントと呼ばれる、利己本位の勝手な言動をする現代の大人たちが問題になっているのですが、こういう人たちにおいても、階層志向(功利主義)の毒に侵されたきらいがあるのではないかと思うのです。彼等の一番の価値は階位に伴う利益ですから、階位に関係のないところでは極端な利益先行の“言ったもん勝ち”を罷り通すという人が増えるのも然りとうなずける気がします。

 なにせ、自分と自分の属する組織の利益しか頭にない。縦の仕組みの中で分担された役割だけをこなし、それ以外の他人、そして社会や国、世界や地球といったことについて考えるのはそれらの専門家にまかせたらいい、余計な口を挟む立場ではない(専門外)とあえて関心を向けない。このような分業主義と、上にへつらいぶらさがり、下に高ぶる姿勢、そんな上下、役割をはっきり区別する人間関係が身につくと、利害意外には無関心になってしまうのも否めません。

さらにこうした社会では従順である(無思想、無哲学の)ほうがコントロールされやすく、組織に受け入れやすいということになります。そういう体制が日本人の曖昧な国民性ともなっているのかもしれません。

こういった縦型組織が基本の日本社会を、もっと言い換えると「ギルド社会」の集団といえるかもしれません。

ギルドとは中世ヨーロッパの都市で発達した独占的排他的同業組合で、都市における政治経済の実験を握って、自らの利権の擁護を図るために組織された特権集団です。

 現在日本でよく聞くギルドは「教員ギルド社会」や「医療ギルド」「建設ギルド」

などですが、官僚体制も一つのギルド社会、今日のように多くの世襲議員からなる政界もギルド社会といえます。また、警察組織、防衛組織、地方自治体、国の出先機関などなど・・・・・ギルド内では功利主義によるギルド組織の温存を図ることが第1の目的であり、そのことによってギルドの会員は特権を保証されるというわけです。こうしてみると、ギルド組織が不正の温床になることも納得でき、現在の日本社会全体が巨大なギルド船団の談合社会といえるのかもしれません。

 つまるところ、現代日本の抱える負の部分の多くは、このギルド的社会にあるということになります。そしてそのギルド体制下では、ギルド会員の外側はみなギルドの餌食になっているのですから、「快に生きる」ことなどは夢のまた夢ということになります。そしてまた日本国民全員がどこかのギルドに属することも不可能なのですから、ギルドの外側でアップアップしながら人生におぼれかけ、そんなときに「誰でもいいから殺したい」と思ってしまう人が結果として表出しているのでしょう。そして、そんな人たちのほうが圧倒的多数派なんですよね。

 問題はやはり、ギルドの餌食になっている私たちが「人間の価値」をどこに見出すか、ということなのでしょうか。

参考:

 教員ギルド社会について

JR東海の葛西会長は教育再生会議の委員をしておられますが、日経の経済教室に日本の公教育の現状がいかにひどいかという論文を寄稿されています。(日経、経済教室11月9日)以下は長くなりますが、その抜粋です。同氏の指摘されているのは、日本の教育は文部科学省を頂点として、末端の教師まで、教育ギルドが構成されており、そのギルドを維持、発展することが最大の目的になっている。子供の事などは二の次だというも

のです。このギルドには当然、日教組も大きな構成要因でしょう。例えば主要科目の時間数が欧米に比べて非常に少ないが、これは主要科目以外の教員の職を確保するためだと指摘しています。そして、教員の数も、給与もすでに主要国より上なのに、さらに増員や、待遇改善を求めているのです。教員の質のネックは教職員免許にあると指摘されています。たしかに、大學で教職を取った人以外は教員になれないという制度は、門を狭めながら、一旦教職をとった教師の既得権益を守っているわけです。教職をとらなくても有能な人は幾らでもいるのに、教員にはなれないのです。これもギルドの特徴です。

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快に生きる技 Vol.

 

「オトコの美学?

 階層志向という目くらましに惑わされてしまっているこの社会の裏面について、先回と先々回にわたってお話してきました。

 この階層志向がどこから生まれてきたのかを、つらつらと考えているうちに、実は「オトコ社会の産物であった」ということに気づきました。

 そのキッカケは「ニーチェ」でした。

彼は、19世紀末から20世紀初頭にかけて多くの思想家、哲学者に現在もなお強い影響力を及ぼしているドイツの哲学者、古典文献学者です。

 ギリシャ文化を範とする芸術的哲学を説いたのち、「神は死んだ」としてヨーロッパ文明・キリスト教への批判を深め、永劫回帰・力への意志の世界において、あらゆる〈価値転倒の試み〉を説き、ニヒリズム(無や空を主張する)を克服し「超人」として生きることを主張し、ヨーロッパ文化の批判者、来るべき時代の予言者として、今日に至るまで現代ヨーロッパ精神界における一つの重要な合言葉とされています。

 現代日本において「神は死んだ」と聞いても、それほどのショックはないのですが、当時のヨーロッパ文明の根幹にあった大部分のキリスト教信者にとっては、その言葉は嘲笑の対象でしかなかったのです。

 それほどあらゆる根底的価値の転換を図ったニーチェは、それまでアンチ「神」がくすぶっていた輩たちには衝撃的な救いとなったであろうと想像します。ニーチェ思想の詳細については、個々の研究に委ね、その解釈の違いを尊重することはやぶさかではありません。

ここで私が取り上げたいことは、私流の解釈におけるニーチェの思想である、あらゆる価値の転換、徹底的な宗教、道徳の否定、人生に目的も意味もなく、神、霊魂、普遍的原理といった形而上学的なものを全否定し、さらにはカント的認識(完全な認識の存在)も否定、つまり客観世界、秩序世界を否定し、あるのは肉体のみ、生命体の数だけ解釈の体系としての「世界」が存在する、と語ったニーチェなのですが、その根底にはオトコとしての生命感情に翻弄された、彼の「オトコの性」が横たわり、そのことに苦悩していたということを言いたいのです。

晩年、彼が精神崩壊(狂気)に至った原因は、もしかしたらこれなのかもしれないとまで感じています。

 もちろん、上記のような、道徳、宗教の胡散臭さ、善悪の曖昧さ、解釈を基本とする主観的世界あるのみ、という客体(客観)の不在思想などは、(特に日本のような宗教の自由が実現された社会においては、)『然り』と共鳴できるのですが、ニーチェは「生の価値の根拠」について、「肉体の欲望」との相関性において決まる。簡単に言うと、肉体の欲望が価値評価する力なのだと言っています。

 彼岸にも、絶対者にも、世界や歴史の全体にもない。ただ個々の身体(=肉体)の「性欲」「陶酔」「生命感情」「支配欲」「恍惚」といったもののうちにのみある。そして、一切の価値の源泉は「力への意志」なのだが、人間においてそれはとくに「性欲」「陶酔」「残酷」という三つの言葉に象徴される。生はつねにこの言葉に象徴されるような「生命感情」をもとめる。それらは人間の生の起源であり、源泉であり、根拠である、と言っているのです。

このニーチェの思想、概念において、私の解釈するニーチェにおいては『愛』が抜け落ちていると思ってしまうのです。そして彼ははっきりと「隣人愛」という思想を否定しています。「人間は自己への欲望を捨てて他者を愛することはできない、むしろ自己への愛を通してはじめて他者を愛することができる存在なのである」と。

 思うに、「愛」とは「自己と他者の一体感」につながるものと理解していますが「自己への愛を通じて他者を愛することができる」から自己と他者とが一体化するのであって、その経過を通過すれば「自己への欲望」が「他者を愛する」ひいては人間愛というものに至るということを経験上感じています。

ここから推察するに、ニーチェは本当の『愛』の体験をしていないのではないかと思うのです。「自己への愛」というものも、中途半端な「利己愛」でしかなかったのではないか、もし徹底的に自分を愛し、受け入れ、自分を信じていたとすれば、その安心感、充足感が自動的に他者にも向けられ、誰かを(人間を)心の底から『愛する』体験ができるはず、そしてその『愛』が利他的に作用し、そのことがこの上ない悦びであり、生きがいであることを経験しているはずです。このように欲望を排他的面でしか捉えない、自己への愛と他者への愛とを分離する考え方は、納得できないものがあります。そのことはニーチェが早くからたびたび精神的病に襲われていたということからも伺えます。自己否定が招く必然ではないのでしょうか。

 さらには、生の根拠、価値について、支配欲とか、敵を圧倒した勝利、さらに残酷といった言葉に象徴されるなどということは考えられません。

 そしてここで、今回のテーマ「オトコの美学」の登場です。

まず、「オトコの美学」なるものこそ、上記のような過激な言葉で象徴される世界なのではないでしょうか。つまり、オンナの『愛』に生きる論理とはかけ離れていることに読者はお気づきのことと思います。

 「オトコの美学」に代表されるオトコ論理によって、現在までの世界の歴史は作られてきました。そしていまでも戦争の耐えない中東諸国では、オンナはベールで顔を隠すなど、オトコとの一線を引かれた存在であり、それゆえに高度の教育を受ける土壌も充分には与えられず、自由に社会や政治に参加することは、わたしたちよりも困難な状況にあります。

 オトコは絆をつなぐことではなく、自らの剣(『力』)によって、相手を圧倒し、その足を鎖でつなぐことを考える動物のようです。言い換えれば、オトコの肉体が求める生命感情とは、略奪、支配という『力』へ意志する闘争欲という孤独な欲望が根拠となっている動物といえます。そして、『力』の完成こそ、理想のオトコとなり、そのことの象徴が戦い続ける「オトコの美学」となるのでしょう。

反面オンナは力よりも心の絆を大切にし、誰かとつながっていたい、という『愛』を中心とし、「愛に生きる」ことを目標に、それを大切にしたい動物といえます。

 先ごろ丁度このことを解りやすく語った「日米開戦と東条英機」と題して、真珠湾攻撃に至った理由を説得力のある内容で語ったドラマが印象的でした。

 その頃の日本は資源の不足を海外へ求め、満州を侵略しそれに成功したことからはじまります。その成功は軍(陸軍)に力を与えました。つまり「オトコの論理」が権力を持ったということです。特に軍の中層以下では、「行け行けムード」が沸騰し、さらにマスコミはそれに拍車をかける情報をばら撒き、民衆までもそのムードに巻き込まれて、戦争反対を唱えるものはマイナー化に進んでいったのです。

 天皇の意志を尊重した東条英機は、外交による解決を重視し、陸軍上層部においても、はじめは日米開戦での勝利を危ぶむ声が多く、山本五十六においてさえ、対米戦には弱腰で、「開戦の場合一年半しかもたないであろう」と日本の敗戦を予知し、上層部のほとんどが外交路線を示唆していたにもかかわらず、血気に逸る軍中層部以下を抑制しきれず、その勢いに巻き込まれ、ついに不本意な開戦へと進んでゆく状況は、まさしく「オトコの美学」に酔いしれた無分別行為そのものでした。たとえそこに米国側の戦意が加わっていたとしても、オトコの感情(欲望)が開戦を促したということには変わりありません。ドラマとはいえ、説得力のあるもので〈やっぱり〉と納得してしまいました。

 「階層志向」もそんな「オトコ論理」に裏づけされていることは、すでにお気づきと思いますが、それ以上に「オトコの美学」と称して陥りやすいのは、上記のような無分別行為を「はずみ」や「勢い」といったオトコの闘争欲でやってしまうその本性にあると思うのです。その道を選択しないと『女々しい』とされてしまうからでしょう。

オトコにとって『女々しい』は、最悪で、決して言われたくない評価なのです。

 そこに、オトコがオンナを蔑視している証拠があります。いえ、決して責めているのではありません。オトコがいくら女性を同等に扱っていると言っても、また、オンナを大切な存在と重ねて言葉に出しても、無意識に『女々しい』自分を拒否してしまうということは避けられないのです。そこにはオトコと生まれオトコを生きる美学が存在し、その悲しいオトコの性(欲望と志向)がオトコ自身を苦難へと向わせるということなのです。

 ニーチェの思想の底流には、こうした悲しいばかりの苦難に、「にもかかわらず」と称して向うニーチェ流「オトコの美学」の芸術的輝きのようなものにあるのではないでしょうか。

 これまでの思想や哲学は、オトコの世界から見た学説が多く、ニーチェも同様であったといえます。しかしながら所詮オトコとオンナはそれほど本性に違いがある、ということを認識した上で、オトコだけに依存せず、オトコだけに任せることなく、オンナはオンナのやり方、主観、価値観で、世界を具体的に示す必要があるのかもしれません。

 それには、オンナもオンナと生まれたことに誇りをもち、オトコの従属物としてではなく『オンナの愛の美学』に自信を持ち、真正面から自己のオンナと対峙し、オンナを真剣に生きることが必要だと思っています。

つまりオトコと競争し、オトコの真似や、オトコに近づこう、追い越そうなどと考えることそれ自体が、オトコを羨み、オトコ論理に翻弄されることだと思うのです。しっかりと『オンナの論法』を確立した上で、互いに足りないものを補い合い、協力し合えれば、きっとのどかで平和な世界が実現することでしょう。

 いや、オトコにとって「のどかで平和な世界」なんて、退屈で物足りない、面白くない世界なのでしょうか。やっぱり、闘い、競争、残酷、支配、略奪という言葉で象徴される世界のほうが、生き生きワクワクと生きられるのでしょうか。となると、地球はオトコ世界とオンナ世界に分けたほうがいいということになるのでしょうか。

 今年はこのテーマを課題にしたい・・・・・そう思っています。ご意見をお寄せください。

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